2021年11月22日、連続シンポジウム「世界哲学・世界哲学史を再考する」の第6回「世界哲学と宗教」がZOOM にて開催された。この連続シンポジウムは、2020年に筑摩書房から刊行された『世界哲学史』シリーズ(全8巻+別巻)の編者である納富信留氏(東京大学人文社会系研究科)をオーガナイザーとして迎え、「世界哲学(史)」という概念を再構築し、その方法論的な意義を探る試みの一環である。
今回のシンポジウムでは、マクロな比較宗教学の再構築に取り組む藤原聖子氏(東京大学人文社会系研究科)、西洋中世における神学の成立と哲学受容の関係を研究している加藤和哉氏(聖心女子大学)が登壇し、世界哲学という観点から見た宗教について講演を行った。それに対して、コメンテーターを務める根無一行氏(大谷大学)からコメントが述べられた。
最初は納富氏から今回のシンポジウムの趣旨説明がなされた。氏によれば、「世界哲学・世界哲学史」は宗教なしには語ることはできない。ちくま新書のシリーズ『世界哲学史』においても、古代・中世を扱った巻においては宗教が中心的なテーマとして議論されていた。しかしながら、近代以降を扱った巻においては、宗教への目配せは限定的なものにとどまっていた。こうした『世界哲学史』シリーズの振り返りを踏まえて、世界哲学と宗教の関係を考えるための論点をいくつか提示しつつ、納富氏は藤原氏と加藤氏にバトンを回した。
一人目の発表者である藤原氏は「「世界哲学」は世界に開かれているか―宗教学も直面する問い―」と題された発表を行った。藤原氏はまず、ときに専門の研究者からも提起される「宗教は哲学に入るのか入らないのか?」という問いについて考察するところから発表を始めた。一方に、哲学の視点から見れば宗教はひとつの「思想」として広義の哲学のうちに包含されるという立場がある。だが他方、宗教学の視点から見れば宗教とは思想にとどまらない実践・組織・文化にまたがったものであって、むしろ哲学は単なる思想として広義の宗教のうちに包含されるという立場もある。このような相対化を施したうえで、藤原氏は宗教学が西洋から世界に拡大する過程で直面した課題に、世界哲学もまた直面するのではないか、という問題提起を行った。
二人目の発表者である加藤氏は「キリスト教は宗教か」という題で発表を行った。氏は、自身が務めるカトリック大学の学生たちを事例として、日本人の宗教認識を紹介するところから発表を始めた。私たちがイメージする宗教とはどんなものか、私たちは宗教という言葉をどこから受け取ったのか。宗教に対する私たちの(非)常識を振り返りながら、加藤氏は「宗教」と訳されることになった “religion”という言葉の来歴をたどってみせる。しかしながら、そこで明らかになるのは、私たちが「宗教」という言葉によって普遍的な仕方で宗教を論じることの不可能性・困難であった。このような反省を踏まえると、むしろ宗教という画一的な語を用いた探究をたどることによって、逆説的にそれぞれの時代がどのように宗教的実践を位置づけようとしたのか、というユニークな問題が導き出されてくるのだと加藤氏は述べる。
藤原氏と加藤氏の発表が終わったあと、根無氏が「世界哲学と宗教」に関するコメントを述べた。氏は、「内在/自己」を重視した後期ミシェル・アンリのキリスト教哲学の研究から出発し、「超越/他者」を重視するレヴィナスを経て、「アウシュヴィッツ以後」という問いを携えながら宗教哲学の研究を推し進めている。そんな氏から見て、「世界哲学」の構想はつねに「辺境」を捉えようと試みながら、いつしかその辺境を「中心」化することで挫折してしまう可能性をはらんでいる。だが、そのような挫折に自覚的な営みとして世界哲学を推し進めることこそが重要なのだという見解を氏は示した。このような世界哲学的な見通しを示したうえで、根無氏は藤原氏、加藤氏への質問を行った。この質問に答えるかたちで、納富氏も交えながら盛んな議論が交わされることとなった。
世俗化が進んだ現代において宗教を考えるとはどのようなことなのか。ある共同体にとって自明の前提として宗教的な実践が受け容れられていた時代から、その実践の歴史や意義が絶えず問い直されることが当たり前の時代に変わったとき、私たちはいかに宗教を語るのだろうか。「世界」という視座を持つことは、自己を相対化し、自己の根拠を問い直すことにつながる。宗教が時代の変化のなかでこのような反省の学問として歩みを進めてきた部分に、「世界哲学」が習うべきところが数多くあることが、今回のシンポジウムにおいて明らかになったのではないだろうか。
報告者:田村正資(EAA特任研究員)