2021年11月19日、第23回「〈現代作家アーカイヴ〉文学インタヴュー」の模様がZoomにて公開収録された(EAA、UTCP、東京大学ヒューマニティーズセンター、飯田橋文学会による共催)。インタビューでは、作家の町田康氏をお迎えし、批評家の矢野利裕氏が聞き手を務め、町田氏自選の代表作『くっすん大黒』(1997)、『告白』(2005)、『湖畔の愛』(2018)の三作を中心に話が展開された。
インタビューは、町田氏の作家デビュー作『くっすん大黒』の執筆経緯に纏わる話に始まった。町田氏の創作の原点には、二つの経験が絡んでいるという。その一つが、町田氏が十代のころに触れた、当時ブームであったパンク・ロック。従来は芸事としての音楽であったものが、感情を率直に吐露し日常的な出来事を謳う、見た目の印象もこれまでと違うロックに感銘を受け、音楽を始めたと町田氏は語る。と同時に、その創作力の源には、自身の用いる語彙の違和感が関わっているという。だが、その言葉遣いが詩集『供花(くうげ)』(1992)の依頼に結びつき、その詩集が注目されて雑誌からの執筆依頼が舞い込むようになり、最終的には小説を執筆する機会に繋がることとなった。
日常の出来事を謳い上げるロックへの関心は、町田氏の内田百閒(1889-1971)への興味にも少なからず関係しているように思われる。ギター担当者から内田百閒のことを聞き知ったという町田氏は、後に内田の著作に目を通した際に、強い共感を覚えたと話す。日々の生活におけるちょっとした引っ掛かりや感覚を、人にわかる形で言語化するその作品に、触発されたと町田氏は述べた。
インタビューでとりわけ興味深かったのは、矢野氏から時折投げかけられる小説をめぐる意識に纏わる問い、それに対する受け答えから浮かび上がる町田氏の小説との向き合い方だった。先行する日本文学との接続性について問われると、そういう意味では何も参照していない、と町田氏は話す。町田氏が初めて日本文学を本格的に読んだのは、音楽活動を三年ほど休止し、家に篭っていた時のことであったという。それまで日本文学のもつ独特の湿度/内面を忌み嫌っていたものの、その時はじめて日本文学を面白く楽しく読んだと振り返る。とはいえ、その創作過程では、前例や先行先品を特に意識し、それらに近づけようとはしなかった。それでも結果的に、さまざまな記憶が作品に反映することがある。例えば、『くっすん大黒』の主人公の一人語りについて振り返る中で、テレビで目にした一般人の芸に対してプロが講評する番組の中で、ある一人の男性が落語「寄合酒」を披露した際の記憶、そして筒井康隆の『夜を走る』に登場するタクシー運転手の大阪弁での一人語り、その二つを合わせたようなものになったと明かす。意識したものではなかったものの、事後的に考えるとそれらが「自分の頭の中に残って」おり、その前に読み、耳にしたものが自分の中に「言葉の塊」として確かに入っていた、と町田氏は言う。こうした小説をめぐる意識は、「初めからこういうことを書こうと思って書いている小説」、すなわち恣意的・過度に作為的な小説をあまり良いものとは思えないと語る町田氏の価値観にも色濃く反映されている。
今回、町田氏の小説をめぐる意識を追体験する中で印象に残ったのは、その活動を貫く、町田氏の創作に対する姿勢であった。一度試したことは、「こういうふうにやるとこうなる」というのがわかってしまう。それゆえ、一つの技法を使い続けないスタンスをとり続けてきたという。この技法・題材の遍歴に関して、上手くなってくると「楽しててええんかな」という心持ちがしてくる、と町田氏は明かす。次々と新たな題材・技法・手法を繰り出し創作に取り組んできた町田氏の活動歴には、慣れに甘えることなく、常に新たなことに挑戦し続ける姿が垣間見えた。
インタビューの本篇では、自身の好きな言葉「湖畔」から連想・展開したという『湖畔の愛』に関連したエピソードなど、町田氏の様々な創作秘話が明かされ、矢野氏のリクエストした「付喪神」(『記憶の盆をどり』2019年)のハイライトシーンを、町田氏自身が朗読する様子なども収録されている。収録された内容は、近日中に飯田橋文学会のページ「文学インタビュー」で公開される予定である。公開収録を見逃された方にも、町田ワールドをぜひご堪能いただきたい。
報告:片岡真伊(EAA特任研究員)
写真撮影:宇野瑞木(EAA特任助教)