2021年11月14日(日)、13時よりオンラインと対面のハイブリッドで国際ワークショップ「石牟礼道子を読む――世界と文学を問う」が開催された。
このワークショップは、私たちの「石牟礼道子を読む会」が2020年6月から始まり、2回のワークショップを行ってきたことを踏まえて、初めて海外の研究者も迎えての国際ワークショップという形をとることとなった。発表者は、読書会メンバーの建部良平氏(東京大学大学院博士課程)、徐嘉熠氏(精華大学大学院博士課程)、池島香輝氏(東京大学大学院総合文化研究科)の3名である。
そして、講演者として、たいへん幸いなことに、詩人・作家の池澤夏樹氏をお迎えすることができた。池澤氏は、ご自身の創作活動とともに、一方では世界文学の紹介者としても重要な仕事を積み重ねられてきた。その池澤氏が編纂された『世界文学全集』(河出書房新社)において、日本文学から唯一選ばれたのが、石牟礼道子の『苦海浄土』であったことは、石牟礼の読まれ方に大きな影響を及ぼしたと考えられる。また、日本文学の系譜の最初に位置する『古事記』の現代語訳(河出書房新社、2014年)を完成させ、その言葉の世界を小説『ワカタケル』(日経BP、2020年)に結実させて、文字で世界を認識する前の日本の古代人の心象や言葉を克明に語ってみせたのは記憶に新しい。
初めに、司会の髙山花子氏(EAA特任助教)から、本ワークショップの趣旨説明でも、この池澤氏の編纂された『世界文学全集』が私たちの活動の大きなきっかけとなった経緯が述べられた。具体的には、2020年の春頃から突如 COVID-19の蔓延する世界になり、私たちの中で、未曾有の出来事に人がどのように向き合い、また「書く」ことに対峙してきたのか、具体的な文学作品からヒントを得られないだろうか、という気持ちが沸き上がってきたことがあった。当初は古典作品なども念頭にあったが、発起人である髙山氏と私(本ブログ報告者:宇野)がEAAの「世界文学リサーチ・ユニット」に所属しており、そこで読むということを考慮したときに、浮上してきたのが、石牟礼道子であった。こうして私たちは、殆どが専門外の集まりながら、この『世界文学全集』に収められた『苦海浄土』三部作をおよそ半年かけて隔週で読み進めてきた。さらにその後は、『苦海浄土』以外の石牟礼作品の読解へと進み、また新作能の上映会等を重ねてきた。このようなわたしたちの時間の蓄積が、ここで池澤氏に結びつくことが叶ったのである。
当初は池澤氏に先に講演をいただき、その上で研究発表が続く予定であったが、池澤氏のたってのご希望により、3名の研究発表の後で、それに対し池澤氏が応答くださるような形で、後からお話をいただくこととなったことが告げられた。
研究発表
研究発表の最初は、建部良平氏の「苦海を吹き抜ける風――石牟礼文学における風の描写について」であった。建部氏は、私たちの読書会の第2回ワークショップで発表された『苦海浄土』における「狂い」「笑い」と「救い」についての考察を踏まえつつも(この内容は、同氏の論考「「苦海浄土」と共に――狂いと救い、そして笑い」(EAAブックレット『石牟礼道子を読む――世界をひらく/漂浪(され)く』2021年3月)として発表済)、今回は「風」の描写に着目することで、石牟礼の他の作品にまで通じる「救い」の問題を新たに展開させた。それは、例えば『苦海浄土』第2部で、患者たちが大阪での株主総会で、御詠歌を誦唱し「狂」うことによって積年の思いを一旦は昇華させた翌日、巡礼団が登った高野山で足下に感じた「風」の描写に、単なる情景描写以上の意味を見出すというものである。さらに建部氏の視点のユニークさは、石牟礼が傾倒した白川静の漢字学における「風」という文字の議論を接続した点である。白川の学問は古代人のアニミズム的な世界観を描くことに注力しており、その表現の文学性は石牟礼と通底すると指摘した。その上で、具体的には、『椿の海の記』と『水はみどろの宮』における未分化世界と言葉の世界(人間の世界)との関係の違いとそれぞれの「風」の描かれ方を分析した。そして、「風」の表現が見えない存在、未分化世界との触れ合いと変身、閉じられた一つの世界から別のもう一つの世界への回路が見いだされる瞬間と密接な関係にあると指摘し、その上で『苦海浄土』における「救い」の議論と結びつけた。
二番目の発表は徐嘉熠氏の「『不知火』における『山海経』の受容について――「夔」のイメージを中心に」であった。徐氏の発表は、これまであまり論じられてこなかった石牟礼作品に見られる中国古代イメージと東アジアへの越境性を明らかにした画期的なものであった。徐氏は、石牟礼が白川静の研究に傾倒していたことを踏まえ、具体的には石牟礼の新作能『不知火』に登場する「夔(き)」に着目して、石牟礼が中国古典イメージをいかに捉え、作品に取り込んでいたかを分析した。能『不知火』は、竜神の姫と弟が海底の毒をさらい死ぬことにより来世で夫婦になれるという筋で、その道行と祝婚の場面で終わる。その祝婚の場面で呼び出されるのが「歌舞音曲を司る、もろこしの楽祖」の「夔」である。「夔」が磯の石を撃ち妙音を鳴らすと、浜に惨死した百獣らが呼び出され舞い狂う。この「夔」のイメージについて、徐氏は石牟礼が白川の解釈を通した『山海経』とその他の中国古代文献をもとにしながらも、「楽官」を「楽祖」に変えた点に着目する。つまり「君臣」の縦の権力関係から外して、世界の源にある音曲の始祖として登場させることで救済を描こうとしたというのである。また音曲の源たる「夔」の鳴らした妙音は、言葉でも歌でもない、それらが生まれる前の無意識の音であるがゆえに、生命に呼びかけるのにふさわしいものであった。そして石牟礼にとって神話イメージが重要であったのは、「夔」が人間・非人間の特質を同時に一つのイメージとしてもつ「生命の総合体」であるように、被害者と救済者が一つとしてありうるような多義性を可能にするからだと主張した。石牟礼が近代の行く末に新しい神話的イメージの力で対峙しようとしたとするならば、それは日本の古代世界だけで捉えられるべきものではなく、その越境性にこそ見いだされるべきであろう。徐氏の発表は、石牟礼文学の源泉たる地脈水脈が、中国の古代文献の想像力に確かに通じていたことを明らかにした点で、大きな意義があると感じた。
最後の発表は池島香輝氏の「「もだえ神」たちのかなしみ――『椿の海の記』を読む」である。池島氏は、石牟礼の幼少時代を「みっちん」という四歳の少女を通してみた世界として回想的に創作した作品『椿の海の記』(雑誌『文芸展望』1973‐1976年に連載)を中心に、みっちんの「魂の乖離」と「もだえ神のかなしみ」というテーマを論じた。石牟礼の創作活動の並走者というべき編集者の渡辺京二は、石牟礼作品の特徴として、文字=知識で構成され知覚される二次的疑似的に知覚される「ワールド」とは異なる、自身を中心に同心円状的かつ具体的に総合される神羅万象の世界である「コスモス」が描かれている点を指摘した。その上で、言葉の世界(人間の世界)に触れることで次第に「コスモス」から剝離せざるを得ないみっちんの抱く孤絶感と、近代と遭遇することで「ワールド」から疎外され魂の放浪者になった前近代の民の嘆きが異なりながらも重ねあわされるのが『椿の海の記』であると論じた。この渡辺の論を踏まえながら、池島氏は、作品の中で、具体的にそのコスモスを構成する存在について検討し、異人的存在と異形的存在を抽出していった。とりわけ、みっちんの祖母で、夫が妾を作ったことがきっかけで魂が漂浪(され)き出てしまった「狂女」で「盲」の「おもかさま」に着目し、その「かなしみ」にみっちんの魂の孤絶の「かなしみ」が重ねられる在り方を「もだえ神」として見る可能性を示し、石牟礼文学の基底を成す部分を丁寧に論じた。
池澤夏樹氏「みっちんの魂――みなさんのお話を聞きながら」
以上、3名の若手の発表を受けて、池澤夏樹氏が「みっちんの魂――みなさんのお話を聞きながら」と題し、それぞれに応答をされながら話された。それは、思い返すに、まことに豊かな時間であった。池澤氏は、あらかじめ用意された原稿にそって滔々と話されるのでは全くない仕方で、若い研究者たちの研究発表について、それぞれ自身がどこにインスピレーションを受けたり、連想を得たりしたのか、ゆっくりと内容を吟味しながら、大事な言葉だけを選んで静かに語ってくださった。つまり、あくまで作家・詩人として対峙しながら、もっとも真摯な形で応答してくださったのであり、それは大変なエネルギーを要したものであろう。
例えば、「風」については、見えないことが大事である、ということを語られた。宮沢賢治や宮崎駿は風をモチーフにした作品が多いが、その作品では風は視覚的な表現を得ていくのに対して、石牟礼は見えないものを見えないままで、聴覚や触覚や嗅覚で描くのだという。また、石牟礼さんは映画の影響を受けていない点も重要で、映画のカットの切り替えのような描き方が見られず、主観的世界で終始する、という。そして石牟礼さんが、いかに耳がよいか、というお話も印象に残った。
『椿の海の記』については、「みっちん」に同じ年の友達がいない、ということ、そこから疎外されている存在である、と自覚していることが決定的である、と述べられた。石牟礼さんが子供たちと戯れる幼少時代を過ごしていたら、石牟礼の文学は生まれ得なかったのかもしれない。
中国神話については、石牟礼さんがよく巫女のようだといわれるが、神がかりな人ではなく、神話的なものを魂の中にもっていて、そっちの方が居心地がよい、と感じている人だったとおっしゃったのも興味深かった。ただ人間世界で生きていくにはそうもしていられない、それが辛くて若い時分に何度も自殺を図ったが、言葉での表現手段を得て人間世界に対する自分のスタンスが作れるようになった。そこから水俣病患者との付き合いもしていった、と述べられた。石牟礼にとって言葉は、神話的混沌の世界から剥離させてしまうものでありながら、一方では言葉で「書く」ことなくしては生きられない、矛盾に満ちたものだったことがよくわかる。そして中国神話については、池澤氏ご自身が愛唱されているという、晩唐の詩人・李憑の箜篌引の歌を紹介くださった。また、ある時、石牟礼さんからお電話をいただいて、夢を見た話をされたときのエピソードも魅力的であった。石牟礼さんは、夢の中で誰か女性が「あしたっから、おてんとさまがいなくなります」と告げたというのだが、それはアメノウズメだったのではないか、と伝えたいと思いながら亡くなってしまったのだという。
このように、池澤氏が、石牟礼さんの文学や言動から、ご自身にとってほんとうに汲み取ったと感じられる、重要なエッセンスの部分だけを惜しみなく教えてくださった。
そして、最後に「自分は石牟礼さんの素晴らしい表現などを色々と知っているけれども、研究者ではないから、緻密な分析などはできるだけしないようにしている。大事にしているものの中でも、とっておきの、石牟礼さん自身から伺った言葉をここで披露したい」とおっしゃった。そこで朗読されたのは、海辺の岩にしがみつく巻貝の群れの呼吸と自身の呼吸とをあわせて、そこで夕刻の暗闇を迎えるまで無限の時間を共有する幸福感を概念的抽象的な言葉を一つも使わずに表現しきった、石牟礼文学の至福の部分が結晶化したような一節であった。それが池澤氏のかすかに震えるような繊細な声で読み上げられると、石牟礼さんの柔らかい声とも重なって響くような不思議な感動が込みあがってきた。それはなんと美しい瞬間で、豊かな体験だったことだろう。
これまで世界文学から日本の古典文学に至るまで数知れぬ文学作品を読まれてきて、ご自身も日本語の文体を問うような革新的な作品を多く発表してこられた池澤氏が、世界文学として石牟礼作品を選んだのはなぜなのか、そのエッセンスが肉声によって伝えられたことは、改めて得難いことであったと感じている。
コメントと全体討議
以上のやり取りをも含めて、鈴木将久氏(東京大学)と山田悠介氏(大東文化大学)から、それぞれコメントがなされた。鈴木氏からは、発表者3名に共通性がある点を述べられた上で、白川静の漢字学について石牟礼が、どのような部分からインスピレーションを得て作品に取り込んだのか、という問いが投げかけられた。白川が述べるのように、神話は言葉によって作られるが、定着させるのは「文字」である、とすれば、文字化する次元をどう考えていたのか、石牟礼は白川から得た着想から、さらに別の形へと展開させた可能性がないか、というものであった。
そして、山田氏からもそれぞれの発表に対する応答がなされた。建部氏が指摘した石牟礼作品の風については、二つの世界をつなぐ移行や変身をもたらすエレメントとしての読みに加え、風と場所の問題、風の記憶や経験の問題が新たに提起された。また徐氏に対しては、東アジアへの視座の重要性に言及した上で、石牟礼の中国古代イメージが白川静を経由したものである点の重要性が改めて指摘された。さらに池島氏に対しては、コスモスの構成要素における草木石の問題、そして「おもかさま」との関係における自他の境界の曖昧化について、『あやとりの記』の一節を引きながら、二つの魂は異質なままで一緒にある可能性について示唆した。
これらの問いや意見に対するそれぞれの発表者からの応答があった上で、全体に議論が開かれた。議題としては、白川静の影響が具体的にいつから見られるのか、といった問題や、文字への態度の変化についての質問があった。またこの会がもともとCOVID-19をきっかけとして、疫病や災害に対峙する人間の書く営みについて考えたいというところから発したところに立ち返ると、この読書会の中でそれぞれ何を得てきたか、という問いもあった。最後の問いについては、今年度のしめくくりに何らかの形で応答できるように準備をしていきたいと思う。
今回、久しぶりに対面形式を交えて行われたワークショップであったが、オンラインでも回を重ねてきたメンバーを中心に行ったものであったので、くつろいだ雰囲気で打ち解けた話ができたように感じた。その分、オンラインでの参加者とのコミュニケーションがとりにくいという課題は残されたが、会場では、いわゆる研究会での討議というよりは、フランクに対話をする場となった。それは、池澤氏の創作者としての態度と私たちの研究者としての態度が異なっていながらも、交叉した結果のようにも感じられる。
今では平地でも雪が降っているという北海道から、冷たい空気の名残をまとった池澤氏が、イチョウの色づく駒場のキャンパスにいらっしゃってくださった。そして同じ場所に存在して、肉声で対話を交わすことができた。この体験は、これからずっと繰り返し思い出すのではないか、と思う。短い時間であったにもかかわらず、じっと耳を傾けている静かなたたずまいや、絞り出すようにお話しされたことや、朗読の声の調子と息遣いというものが、同じときと場所を共有することの深く豊かな意味を教えてくれた。最後に、改めて心から感謝申し上げたい。
報告者:宇野瑞木(EAA特任助教)
写真撮影:齊藤颯人・立石はな