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2021.10.20

第27回石牟礼道子を読む会
——新作能「沖宮」DVD上映会&志村昌司氏講演「新作能「沖宮」再演をめぐって」

急に冷え込んだ秋寒の10月19日(火)、京都からアトリエシムラの志村昌司氏を駒場にお迎えし、101号館11号室にて、今年6月12日に京都の金剛能楽堂で再演された石牟礼道子原作「沖宮」のDVD上映会と志村氏による「「沖宮」再演をめぐって」と題した講演をいただく機会に恵まれた。

EAAの石牟礼道子を読む会では、昨年6月以来、『苦海浄土』三部作を隔週で読み続けるなかで、同書の文庫版あとがきに「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である」とあったような浄瑠璃との具体的な関係をはじめ、石牟礼と古典芸能というテーマを深く掘り下げたい、という思いが強まり、4月以降、新作能「不知火」DVD鑑賞会や、兵藤裕己氏をお迎えしての琵琶法師の記録映像鑑賞会を開いてきた。そうしたなか、石牟礼が亡くなったあと、2018年に初演された新作能「沖宮」が今年6月に再演されたことを契機に、志村氏にこちらの活動をお伝えする連絡を取ったところ、交流がはじまり、今回の集まりが実現した。8月には事前勉強会と初演時の「沖宮」DVD鑑賞会を開き、天草の乱で親を失い孤児となったあやが雨乞いのために龍神への捧げ物に選ばれ、兄である天草四郎に導かれて「沖宮」へと帰ってゆく大筋が、原作とどのように異なり、さらには、恐ろしい風貌の龍神にあやが連れ去られる印象を強く残す初演と、新しく龍神の代わりに大妣君が導入された再演について、比較をしつつ意見交換を重ねてきた(第23回石牟礼道子を読む会第25回石牟礼道子を読む会)。

当日は、会の主催者であり、一連の古典シリーズの立役者である宇野瑞木氏(EAA特任助教)、エコクリティズムの観点から石牟礼研究を進める山田悠介氏(大東文化大学)、ハイデガー研究の宮田晃碩氏(EAAリサーチ・アシスタント)、報告者の髙山花子(EAA特任助教)に加え、青山学院大学の結城正美氏の研究室に留学中で、石牟礼と瀬戸内寂聴についての博士論文を準備中のサラ・ニューサム氏(カリフォルニア大学アーバイン校)を新しくメンバーに迎え、少人数ではあるが、あたたかい雰囲気のなか、会は執り行われた。

 

2021年6月12日(土)上映の『沖宮』DVD鑑賞

 

DVD鑑賞後の志村氏の講演は、1. 近代の危機——東日本大震災と福島原発事故をきっかけに、2. 「沖宮」の色、3. 沖宮とは何か、の3つのパートに分けて展開された。まず、志村氏は、2011年3月から2013年5月までの、染織家の志村ふくみ氏と石牟礼道子氏の往復書簡があったことを紹介し、両者の間で「近代の危機」、生命の危機が共有され、それが呪術的な要素を含み持つ新作能に結実した経緯を整理した。会のはじまりでも志村氏は「沖宮」が「未完」であることを強調していたが、原作の分量を大幅に削減し、五七調中心の古典的な能の詞章に移し変えるプロセスには、水俣弁を残せなかったり、初演の前に石牟礼が亡くなったり、龍神の演出についてだったり、困難が少なくなかったことが伺われた。志村氏が、石牟礼にとっての近代とは言葉が誕生した時点であって、近代以前が言葉以前なのだと繰り返されていたことが印象に残った。

つづいて志村氏がお話されたのは、古来、祈りと染めが結びついており、草木の霊=木霊が、和霊(にぎたま)とされていた古代的心性である。そして、「沖宮」において、石牟礼自身とも重ねられるあやの衣装に反映された緋色の衣、「紅扇」が、枝や樹皮ではなく、紅花の花そのものから染め上げられる点で、花を大切にしていた石牟礼にとっては重要な色であることを指摘された。四郎の水衣「水瑠璃」、初演時の龍神の狩衣「龍神」、そして再演時の大妣君の衣装それぞれにこめられた意図と使用された染料についての解説は、色が「魂の色」であることが実践によって裏打ちされていることを示すものだった。

最後に志村氏は、「沖宮」があやの故郷として想定されていることを、大妣君が折口信夫のいうところの「異郷の神」である点や、関連する豊玉姫物語や、母権思想を示しつつ、母性の海である不知火海が人類によって破壊されたことと、地母神信仰の頃の神獣としての竜が関連していると指摘された。そして、「沖宮」への道行は、存在=生命の復活の物語であるとまとめられた。

 

志村昌司氏

 

質疑応答では、後期ハイデガーの詩論と故郷の主題との重なりやデラシネの問題、機織りの原初的な魅力、祈りの儀式としての能の原型、「沖宮」原作には書かれていたオルガンを挿入した舞台の上演可能性、さらには、キリスト教におけるマリア信仰との関連にまで話が広がり、受難の不条理を現代でどのように考えるのか、生命至上主義を客観的に批判する視座の必要性を含めて、いま、近代をどのように克服できるかが、深刻になっている現実が浮かび上がる議論の時間だった。何度も繰り返し、言葉が道具ではない、ということと同時に、詩の力が色の力とリンクする形で確認されたが、文字以前の世界、あるいは言語の呪術的な作用が、それでもなお、文学と呼ばれうる領域、きわめてテクストに近接する領域で、実行されその技芸が更新され続けている点を、「文学」の定義そのものからラディカルに問い返す時間になったのではないか、と思う。

個人的には、能の上演という形で、ある種の現代のタブーへの切り込みがいまにおいても実現される可能性と、それがどのように観劇後に展開し、個々人の人生に影響を与えうるのか、いまも考えている。そのときに鍵となるのは、近代批判をしている当人がすでに近代精神を持っているのだとしても、舞台においては、近代と近代以前の揺らぎ、境界への分け入りが、何らかの形で可能となる点なのではないか、と思う。昨今、各方面で高まっている呪術的なものや霊性というテーマを、宗教と共に考えるにあたって、芸能の次元は切っても切り離せない、という感覚をえた。また、志村氏からは、「世界宗教」という言葉も出てきたが、その際に、自然や地球環境を考えることは、一つの共通認識をもつ契機となり、その観点からすると、エコクリティシズム=環境文学・批評と石牟礼道子の親和性は、大きな地平へと開かれていると予感した。

当日は、アトリエシムラ東京の佐々木みちる氏も挨拶のために足を運んでくださり、正門をくぐり抜けて、101号館までご案内するあいだ、1号館正面に大きく育ったシラカシを見つけると、すぐさま、シラカシでどのように草木染めができるのか、楽しそうに志村氏と佐々木氏がお話くださったことが心に残っている。振り返ると、それは、手仕事と分かち難く結びついた思想が、風景をどのように見るのか、人間の視点そのものを変えてゆく力を持っているのだと、如実に示していたように思われる。そして、これまで、海の漁師たちの視点から水俣と福島について議論する時間があったが、草木染めを生業とする人たちにとって大地が汚染されることの重みについても、海とひとしく、考えなければならない、と痛感した。

志村氏の講演を通して、記号ではない「色」、自然に実在する事物と一致する「色」をめぐる志村ふくみ氏の思想が石牟礼道子による近代精神批判と共鳴している点が浮き彫りになったが、それでは、6月の再演の際の挨拶で、志村氏が心の原風景そのものとして述べた機織られた布そのものは、果たして、どのようなイメージなのか。母性的なもののイメージや、龍神信仰をめぐって、新作能そのものについて、議論し足りなかったテーマは枚挙に遑がない。遠くないうちに、再び意見交換をすることができるようにと、心から祈っている。

 

 

報告:髙山花子(EAA特任助教)

写真撮影:立石はな(EAA特任研究員)