2021年9月14日(火)16時より、第25回石牟礼道子を読む会がオンラインにて開催された。参加者は髙山花子氏(EAA特任助教)、宇野瑞木氏(EAA特任助教)、池島香輝氏(東京大学大学院博士課程)、本報告文を執筆する宮田晃碩(EAAリサーチアシスタント)の4名である。
今回は、石牟礼の新作能「沖宮」の記録映像を観た感想を交わして議論した。8月31日(火)と9月3日(金)に駒場キャンパス内で小規模の上映会を開き、また参加の叶わない方にはDVDを回覧したものである。
この「沖宮」は今年6月にも京都・金剛能楽堂にて上演された(今年の上演についてはホームページ:https://okinomiya.jp/参照のこと。また髙山氏による観劇の報告は以下のブログ記事:https://www.eaa.c.u-tokyo.ac.jp/blog/report-20210612-ishimure/を参照)。今回観たのはそれとは異なり、2018年10月、熊本にて初演されたものである。再演にあたってはいくつか変更が施されているのだが、大きく異なるのは、初演時に「竜神」として登場した役が、再演では「大妣君(おおははぎみ)」として、優しく包み込むような女性の姿に置き換えられたことである。またそれに伴い、大妣君の台詞として、2011年の石牟礼の詩「花を奉る」から抜粋する形で詞章が加えられている。前回の勉強会では犠牲の物語をどう受け止めればよいかという点について議論が交わされたが、その犠牲を迎え入れるものの姿の変更は、劇全体の印象を変える。今回の「読む会」ではその点についても語り及んだ。以下、話題となったことを簡単にまとめておく。
今回観た初演版では、雨乞いのための犠牲として捧げられたみなしごの少女「あや」を、最後に「神高き姫ぞもぞらしや」と言って竜神が連れてゆく。その竜神の姿がいかにも物々しく、あやは異界へ連れ去られたという印象が強い。自然の恐ろしさを示すという点ではもっともなことかもしれないが、しかし救いがないように感じられたというのが、参加者の正直な感想であった。実際、今年の再演を主催された志村昌司氏は「初演では人身御供的な側面が強調されていましたが、今回はあやが妣に迎えられ本来の故郷へ帰るという側面が印象的です」と綴っている(朝日新聞デジタル2021年6月10日)。
どちらが「正しい」というものではないが、原作となった「沖宮」の台本を見るとまた印象が異なる。舞台では、初演再演ともにワキである「天草下島の村長(むらおさ)」があやを連れて原城の址に上陸し、そこであやが兄分であった天草四郎の霊と出会うという筋立てなのだが、原作では幕開きから既に四郎が現世とも異界ともつかぬところにいて、そこにあやを迎えるという筋立てになっている。そこから回想シーンのように、あやが竜神への捧げものとして選び出される経緯と緋の衣を用意する場面とが思い起こされるという話の運びは舞台も原作も共通なのだが、舞台では再び原城に戻ってあやが送り出される(四郎はそれを送り出しているように見える)一方、原作においては、むしろ村の人々があやを送り出す場面が結末になっており、最後は四郎とあやの舞で締め括られることとされている。つまり原作では、死によって引き裂かれた四郎とあやとがようやく相見え、ひとつになるという点に救いのようなものが見出されている。
これと比べてみたとき、竜神に連れてゆかれるあやを後ろから見送る、初演版の四郎の姿は、やはり戸惑いの残るものであった。再演版では(曖昧な記憶ではあるが)大妣君があやのみならず四郎をも、ともに「沖宮」へ連れて帰るようであった印象がある。おそらく大妣君とは、原作で登場していた「おもかさま」(四郎の乳母でありあやの実母)の役柄をも担うものなのだろう。前回も議論されたように、「妣」とは母たちの系列を言うものである。その重層性を体現するものとして、大妣君は登場させられたのだと思われる。原作では竜神も大妣君も姿を見せはしないのだが、あやと四郎の魂の向かってゆくところを能の舞台のうえで表現するとなったとき、竜神の姿や大妣君の姿でそれを試みたのではないかと思われる。再演にあたっては、原作のさらなる解釈、ないし石牟礼の願いをより深く汲み取ろうという努力があったに違いない。
また犠牲のモチーフをどう描くかということに関しては、石牟礼の場合それを捧げる者の思いの痛切さが描かれているように思われる、という指摘もあった。「沖宮」に限らず、石牟礼は「犠牲」に連なる人々への独特の通路を持っていて、それを作品に滲ませているように思われる。以前観た「不知火」においても、我が身に毒を負い海と大地を浄化する姉弟が描かれ、そこでは姉が弟の犠牲を悼む立場でありながら、同時に自らの身を犠牲にするのであった。もしその姉たる「不知火」に石牟礼自身の姿を重ねて見てよいのだとすれば、そこには水俣病患者や「からゆきさん」、他の名付け難い人々に寄り添い、ともに滅びを生き抜こうとする石牟礼の生き方が示されているようにも思われる。「犠牲」という問題を受け止め考えるにあたって、私たちの各々がやはり死にゆく者であるということが忘れられてはならないのだろう。能という形式にはひょっとすると、そうしたことへの感受性を呼び醒ますところがあるかもしれない。
今回観た初演版について、印象的なことはいくつもあった。特に、この「沖宮」の舞台は染織家の志村ふくみ氏が石牟礼と語り合うなかで誕生したものであり、衣裳は志村氏の監修による。それだけに衣裳の用いられ方は心に残った。物語の核心を担うのは、あやに着せられる緋色の装束である。原作においても「茜色の空」や「彼岸花で飾りつけた小舟」など、赤色のイメージが強調されている。それを能という、極限まで抽象化された舞台で担うのがこの衣である。「水流少なき川辺にて。洗ひあげれば古き煤。埃は落ちて緋き色。花のごとくに現れたり。村のうちより女房ら。ひと針ごとに涙ぐみ。糸を通して縫ひゆけば。夕日に遊ぶ花の色。あやしき衣あらはれたり。あやしき衣あらはれたり」と地謡が歌うなか、四郎が緋の衣を手にもってそれを再現するのも印象的であった。せめてもの晴れ着が胸を打つ。
今回の「読む会」の参加者は能を専門としていないこともあり、実のところ分かりきらないところも多かった、ということを互いに確認することとなった。ただ原作と比べて見てみると、その舞台がどのような願いを原作から汲み取り、再構築されたものであるのかといったことが検討できるようになる。舞台は舞台として味わうべきものだが、それと同時に、それこそ「緋の衣」を洗い上げるようにして、石牟礼の残した思いというものに迫ってゆければと思う。その衣を縫うひと針なりと通せたならば、せめてその供養に与りうるのではないかと思う。
報告者:宮田晃碩(EAAリサーチアシスタント)