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2021.09.15

【報告】第4回東アジア仏典講読会

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2021911日(土)日本時間14時より、第4回東アジア仏典講読会を開催した。この読書会は、禅を中心に仏教の研究を行っている日本・中国・韓国・フランスなど各国の研究者が集い、文献の会読や研究発表・討論を行うものである。今回は前回に引き続き、土屋太祐氏(新潟大学)により慈明婆に関する一節の会読が行なわれた。

 

 

慈明婆は宋代の禅僧慈明楚円(986-1039)の妻と目される人物である。仏教では戒律で僧侶の妻帯が禁じられているが、1204年に編纂された『嘉泰普灯録』の巻3楊岐方会章によれば、慈明楚円の寺の近くにはその妻の慈明婆が住んでおり、慈明は閑さえあれば必ずその許を訪れていた。ある雨の日、慈明がいつものように妻の所へ行こうとすると、それを小径で待ち伏せしていた弟子の楊岐方会(992-1049)が慈明の前に立ちはだかり、「今日こそ言え、言わなければ殴るぞ」と言った。慈明が「そのようなことが分かるのであれば、もうこれまでだ」と言うや否や、楊岐は大悟して礼拝し、「狭い道であった時はいかがか」と尋ねた。それに対し慈明が「お前はひとまず避けよ、わしは向こうへ行く」と言うと、楊岐は寺に戻った。翌日、慈明が未だ寺に戻っていないことを知ると、楊岐は妻のもとにいる慈明を訪ね連れ戻そうとした。慈明、「適切な語を言うことができれば帰ろう。それができなければ、それぞれ別の道を行くまでのこと」。楊岐が笠をかぶり数歩あるいて見せると、慈明は大いに喜び一緒に寺へ戻った。以後、慈明が寺を抜け出そうとするのを見るたびに、楊岐はどんなに遅い時間であっても太鼓を打って修行僧を集め、それをとどめた。それが既存の規則から逸脱するものであったため慈明は怒ったが、楊岐は涼しい顔をしていたという。

 

 

かかる『嘉泰普灯録』の記述を見たうえで、それ以前に編纂された北宋の文献には慈明婆が登場しないこと、明言はされないものの慈明が破戒を犯すような型破りな僧侶として描かれていること、当時広東・広西では僧侶が結婚する風習があったことなどが当時の文献をもとに紹介された。

 

そのうえで、『嘉泰普灯録』が記す一連の問答は史実とは看做しがたいものの、表面的な意味と、禅的な意味の二重奏になっていることについて議論がなされた。すなわち、表面的な意味を追えば、楊岐が「また慈明婆のところへ行くのだろう、今日こそ白状しろ」と言い、慈明が「もう分かってるのだから、それ以上言うな」と応え、楊岐が「このように狭い道であった時はどうか」と問い、慈明が「お前はひとまず退け、わしは慈明婆のところに行く」と言ったと取れる。それに対し禅的な意味を追うのであれば、楊岐が「今日こそ真理を開示する一句を言え」と言い、慈明が「究極の一事が分かったのであれば、それ以上は他人に聞くものではない」と応え、楊岐が「悟ってもなお避けがたい苦とどう向き合うのか」と尋ねたと取れる。ただし、それに対する慈明の「お前はひとまず避けよ、わしは向こうへ行く」を禅的にどう解するかは難しい問題であり、様々な見解が示されたものの解決を見なかった。また、楊岐が笠をかぶり数歩あるいて見せた意図も難解であり決着は見なかったものの、慈明はそれを自分と同じ道を歩む意と解したのに対し、楊岐は慈明と異なる自分の道を歩むことを宣言し、お互いにすれ違いがあったのではないかという理解が提示された。

 

資料を丹念に調べることで当時の状況を知ることができるものの、そこで為された禅問答をどう理解するかは依然として難しい問題である。だからこそ各分野の研究者が一堂に介し、議論することの意義があると言えるだろう。

 

報告者:柳幹康(東洋文化研究所)