2021年8月26日(金)15:00より、オンラインにて第2回「EAA若手研究者研究会」が開催された。本研究会は、EAAに所属する若手研究者が、EAAの活動を通して得たものを自分の研究に還元し、どのようにして「新しい学問」を世の中に問うかについて、専門家だけではなく、広く社会に示すことを目的とする。第2回は前野清太朗氏(EAA特任助教)、田村正資氏(EAA特任研究員)、崎濱紗奈氏(EAA特任研究員)、具裕珍氏(EAA特任助教)が研究の中間発表を行った。司会は田中有紀(東洋文化研究所)が担当し、柳幹康氏(東洋文化研究所准教授)がコメントを担当した。このほか、EAA所属教員や研究員、社会人の参加も複数あった。第1回についてはhttps://www.eaa.c.u-tokyo.ac.jp/blog/report-0210604/を参照して頂きたい。
最初の報告者である前野清太朗氏は、フィールドワーカーでもあり、「ある対象を誰かが描写する」ことをめぐる問題を常に意識してきたという。今回の報告「日本統治初期台湾の漢文地方志編纂活動」では、1896年から1900年前後の期間に日本統治下の台湾で編纂された、漢文による地誌(漢文地方志)をとりあげた。統治者が、被統治者の言語で、その土地の地理や風俗を記述させるという行為はどのような意味を持つのか。報告ではこれら「地方志」の序や本文から、執筆者である台湾在地の名望家たちの思想を分析した。「地方志」は、表面的には「沿革」「地勢」などを淡々と記述するだけの書である。しかし典礼や風俗、学校などの項目において、名望家たちは「そこにある」実情のほかに、「あるべき」姿を描いた。漢文を用い、今の統治者の主導のもとに「地方志」を執筆する名望家たちは一見奇妙な立場にあるが、そこには限られたメディアの中で、彼らが自らを「儒」と規定し、あるべき理想像を模索していくという強い態度を見いだすことができる。
田村正資氏の報告「生きられた偶然性と偶然性の形而上学」は、九⻤周造とメルロ゠ポンティ、カンタン・メイヤスーの偶然性に関する議論をとりあげる。私たちはいま、感染という偶然性が大きく影響する事象に日々さらされながら生きている。また、マイケル・サンデルが『実力も運のうち』で能力主義を批判したように、偶然性を社会システムに入れ込もうとする試みもある。九鬼の偶然観は「全体論的偶然観」とも呼ぶべきもので、他の必然性の因果的系列をも取りえた可能性を持ちながら、いま現実として現れ出た因果系列が必ずしも絶対性を持たないと思惟できる点に、偶然性があると考える。それに対してメルロ゠ポンティは、「未分化なものの創発的偶然観」であり、無秩序・秩序を未分化なものとして含んだ予測できない世界に向き合う私たちが、ひとつの可能な未来へと投企していくときに、歴史的偶然性が、悲劇的に立ち現れてくると考えた。今回田村氏はメイヤス―の「偶然の形而上学批判」の視点も用い、九鬼とメルロ゠ポンティそれぞれの偶然観をさらに明確にした。
続いて崎濱紗奈氏が「辺境的主体試論——香港、台湾、沖縄」として報告を行った。崎濱氏は、香港・台湾・沖縄における事例を同時に思考し、「辺境」において「政治」と「主体」がどのように存在するかを考察する。「辺境」とは、資本及びそれに伴う統治権力が複数交錯しあう地点であり、現代のグローバル資本主義においては、もはや予測不可能な展開を遂げ続ける資本の渦の最先端に投げ出され続ける場所となる。同じ事象に対し、「抑圧/被抑圧」「搾取」「不平等」があると思う立場と、思わない立場の間に断裂(「不和」)が生じ、「主体」とは、その「不和」から開始される「政治」を志向する。そのため「主体」は瞬間的に生じる不安定な存在である。この不安定さを払拭し足場を固めるために、「アイデンティティ・ポリティクス」が展開される。1970~80年代の沖縄における「反復帰」論は、「沖縄」という「アイデンティティ」の内容として「文化」を動員した。しかしこのような本質主義的な方法は暴力を含む。これらの暴力をどのように乗り越え、どのように「主体」を確立させるのか。報告では、台湾ナショナリズムを多元性に基づいて定義する戦略をとった呉叡人氏の取り組みを紹介した。
具裕珍氏の報告 “Cultural Repertoires in Japanese Contentions: Learning from enemy ?” では、主に日本の抗議運動の型をとりあげ、どのような特徴があるのかを明らかにする。抗議活動には様々な型があるはずだが、実際に選択される型はかなり限定されている。集会や、ストライキやボイコットなど破壊的方法、テロなど暴力的方法など様々な型のうち、どれを選ぶかは国によっても大きく異なり、人々が歴史や社会から学習した上で、型を選択していることが窺える。報告では、日本の左翼・右翼がそれぞれ「敵から学ぶ」という方法を取り活動を展開してきたのではないかという仮説を提示した上で、現在までに行ったデータ分析の結果について論じた。1960年~1968年の社会運動・右翼運動それぞれのアクション・フォームを比較すると、それぞれのレパートリーの在り方や、暴力的アクションを選択する時期に差異が見られる。今後さらにデータを詳細に分析し、これらの傾向をどのように解釈すべきか分析を進めていく。
研究会ではそれぞれの報告のあとに質疑応答の時間が設けられた。「漢文地方志」に携わった知識人たちの意見は植民地統治にどのように影響を与えたのか、九鬼やメルロ゠ポンティは歴史をどのように捉えていたのか、「主体」が自らを拡張する際に生じる他者への「抑圧」はどのように解決されうるのか、そもそも右翼とは何でありその敵とは何を指すのか等である。また、田村氏の論じた偶然性に対し、たとえば崎濱氏の論じる「辺境」における「政治」や「主体」といった問題はどのように関わりうるのか、前野氏の論じた台湾にとって日本統治はいかなる「偶然」だったのか、さらには具氏の社会科学的な研究及びデータ分析の中で「偶然」はどのように論じられるべきかといった問題について、石井剛氏を中心に議論がなされた。また佐藤麻貴氏は、四人の報告の中に、近代的価値観の揺らぎと崩壊に対し、その間隙を突くような問題意識を見いだせると述べた。
今後も引き続き、EAAの他の活動とも連動しながら、最終発表に向けて準備を行っていく予定である。
報告者:田中有紀(東洋文化研究所)
東アジアへの西欧の知の伝播の研究 2021年度第1 回公開研究会