7月10日(土)、藤木文書アーカイヴにおける一高生インタビューの一環として、教養学部が初年度を迎えた昭和26年に入学された田仲一成先生にお話を伺う貴重な機会を得た。田仲先生は言わずと知れた中国祭祀演劇研究の大家であり、東京大学東洋文化研究所を退職され、その後も大学の教員を勤められた後、現在は公益財団法人東洋文庫に所属していらっしゃる。今回のインタビューは、先生のご希望により、この東洋文庫において行われることとなった。藤木文書のメンバーより宇野瑞木氏(EAA特任助教)と本報告者(宋舒揚・総合文化研究科博士課程研究生)が直接お伺いし、その他に高原智史氏(EAAリサーチアシスタント)および横山雄大氏(EAAリサーチアシスタント)がZoomにて同席した。なお対面インタビューは、新型コロナウィルス感染予防のため、透明パネルを挟み、全員マスクをつけた状態で行われた。
田仲先生のお話は、まず、ご自身がなぜ一高に憧れたか、というところから始められた。それは端的に、熾烈な争いの頂点であるエリート中のエリートが集まる一高を目指したいというお気持ちがあったからだという。また旧制高校の学生は、そのまま帝国大学までいけることがほぼ確実で、そこも大きな魅力であった。
先生は自らご用意くださった昭和10年頃の受験情報が載っている雑誌記事の資料(『日本国「受験ユーモア」五十五年史』所収の『蛍雪時代』等)に基づき、ナンバースクールとその他の旧制高校などの入試の倍率、学科ごとの受験者数と合格者数、試験科目の配点等、当時の受験事情を確認しながら、一高に入るということが、現代の東京大学受験と比べても遥かに難しいことであり、いかに難関であったか、について丁寧に説明くださった。
また先生が最初に勤められた大学である北海道大学は、旧制北海道帝国大学予科からそのまま入学したこと、また他大学に比べて寮に入る人が多かったこともあり、新制大学においてもその気風が受け継がれていると感じたという。一方で、その後勤務された熊本大学、東京大学、金沢大学においては、それぞれ五高、一高、四高とは断絶があり、旧制高校から新制大学への移行において、各高の個性が消滅し画一化を実感されたという。
この一高から教養学部への移行期の雰囲気について、昭和24年4月に一高以外の旧制高校の出身者も入ってきた時点で、純粋な一高という空間はなくなり寮歌が駒場から消えたということがある。25年には、一高出身者と、東大に合流した一高以外の旧制高校(東京高校、浦和高校など)出身者、そして新制高校の出身者とで三つ巴の様相を呈した。そして田仲先生が教養学部に入学された26年には、23年に最後に一高に入学した者もすべて卒業してしまっていた。但し、寮には、特別な事情があったためか、ごく少数ながら、元一高生も、また特設高等科生出身者も残っていたということである。なお26年の『教養学部報』には、前年の旧制高校出身生と新制高校出身生の試験の答案を教官が比較した記事が掲載されており、そこでは両者の実力差が歴然していると書かれていた。先生は、一高生がすぐれた寮歌を自ら作詞できたのも、このような高い学力を備えた学生ならではのことであったとおっしゃった。
続いて、私たちの方で事前にお渡しした質問項目に沿って先生のお話を伺った。
まず駒場キャンパスの建物についてである。一高時代の建物のなかで特設高等科生の専用校舎であった現在の101号館は、まだ「特高館」と称されてはいたが、実際には事務棟として使用されていたという。900番教室は、一高時代は「倫理講堂」と呼ばれ、講堂の左右に文武両道を象徴する坂上田村麻呂と菅原道真の肖像が掲げられていたが、昭和24年頃には既に肖像は取り外され、「倫理講堂」という名称もなかったのではないかということであった。少なくとも、26年の入学時点で一高時代の名称も肖像もなくなっていたのである。また駒場の地下道については、ご存知ではあったが、中に入ることは許可されていなかったという(当時、原爆が投下されたら、地下道に逃げればと良いなどと言われていたそうである。実際に戦時中の一高では空襲時に地下道を防空壕として使用した)。
なお、寮については、四つの寮のうち南寮が教官室として使われていた。先生ご自身が寮に入っていなかったため、寮の運営などについて詳しくは語られなかったが、戦前と同様に部活動などで部屋割りがなされていたらしい。但し、当時は生活が非常厳しく、寮生の多くは学費を捻出するために授業どころではなくアルバイトに出ており、寮にはあまり人がいなかったということであった。
また、先生は難関に挑戦したい気持ちから一高入学を志望されていたが、教養学部に入学してから、一高の精神や気風の名残を特に感じることはなかったという。なぜなら、当時の社会全体にエリート意識を否定する風潮があり、民衆が歴史を牽引する歴史観が主流となっていたからであった。そのような空気の中で、エリートとして誇りを持つようなことは恥ずかしいと感じられたのである。
この背景にある大きな社会意識の変化は、教育研究にも影響を与えていた。たとえば、学生が中国語に興味をもった理由には、中国という国に対して未来があると期待していたからであった。当時は寮には中国研究会(中寮11番)があり、中国語を勉強するというより、ある種の革命に関する啓蒙活動として機能していた。その会員は中国研究所との関係があり、その独自のルートで『人民日報』などの中国の出版物を手に入れていた。当時、田仲先生は、中国語の授業を通して大きな影響を受けていた工藤篁先生が、そこに関わることを良しとしなかったために近づかなかったという。この工藤先生は漢字一文字について深く探究することを重視し、独自の教育方針を持たれていたというが、一高時代からの教員には、この工藤先生のように個性の強い方も多かった。
また、一高出身者が中文科に多く入ったのも、文学を勉強したいわけではなく、中国の社会経済を勉強したかったが法学部や経済学部に受け皿がなく、やむなく中文科に入ったということであった。興味深いことに、漢文学者になった方は一人もおらず、みな現代中国や現代文学を志したという。また、一高時代に、戦争責任と地続きに思われた漢文(古典)を毛嫌いして、戦時中への反動として「漢文と体操をやらない運動」も行われた。日本文学に関しても、日本精神の象徴とされた『万葉集』などよりも、マルクス主義の問題意識から中世文学を重視していたという。
同じ理由で、共同体のアイデンティティーを象徴する寮歌も昭和24年3月をもって駒場から消えていた。先生ご自身も駒場で寮歌を聞いたことはなかったという。昭和27-29年度以降の入学者くらいから寮歌に対する違和感が薄らいだらしく、この期の方々の間から平成14年になって詠歸会ができ、寮歌が復活してきた。それは、この方々が27年までのアメリカに対する反発、政治の季節が終ってから以後の入学生だったからではないか、との推測を述べられた。
なお、田仲先生が現在において寮歌を歌う会の「詠歸会」に参加された経緯は、「詠歸会」の創始者の一人を実兄(一高23年入学)に持つ旧制中学の同級生(新制東大)に誘われたからであるという。格別、一高寮歌を愛された万葉集学者の五味智英先生(一高教授)と一高時代に交流の深かった一高23年入学の井下さんに歌詞や歌唱について解説して頂いている。その中でもリーダーたち12、3名が「和楽会」という名称で活動しているという。現在は、新型コロナウィルスの関係でオンライン活動に切り替えながらも、「和楽会」の10名程度が月一回集まっている。合唱ができないのは仕方ないが、やはり物足りないということであった。オンラインでの各自の独唱という形で実感された声によって共同化する意味についてのお話は、祭祀演劇の専門家たる先生ならではの観点が見られ、大変示唆的であった。
今回のインタビューを通して、一高から教養学部へ転換期について貴重なお話を伺うことができた。社会全体の時代の空気というものがいかに若者(学生)の考え方と関心に影響を与えたか、が良く伺えるお話でもあった。これは戦時中、エリートの頂点に立つ一高生(留学生を含めて)がどのように考えて活動していたのかを探るにあたっても大変参考になるだろう。3時間弱の長時間にわたり、熱心に質問に答えてくださった田仲先生に心より感謝申し上げたい。
報告者:宋舒揚(東京大学総合文化研究科博士課程研究生)