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2021.09.09

【報告】国立中山大学中文系連続シンポジウム「文化横断的漢学の共生プラットフォーム(跨文化漢學的共生平台)」

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 楽しみは思いがけず到来するものです(いや、より正しくは、喜怒哀楽の情はそれ自体、思いがけぬことへの反応なのでしょう)。ある日、頼錫三さんという見知らぬ方から、メールで章炳麟の斉物哲学について話してほしいという依頼を受けました。お名前を聞いたことはあり、老荘思想の研究者であることぐらいは知っていましたが、それ以上の知識はなく、面識もない方です。長いメールには、「文化横断的漢学の共生プラットフォーム:『老子』と『荘子』斉物論の共生哲学としてのポテンシャルを探る(跨文化漢學的共生平台:發微《老子》和《莊子·齊物論》共生哲學之潛力)」という連続シンポジウムの企画が説明されており、『老子』と『荘子』斉物論をテクストとしながら、共生(co-existence)の哲学について議論したいという趣旨が示されていました。高雄(中山大学は台湾の高雄市にあります)をハブとして、アメリカ、カナダ、中国、日本の研究者が入れ替わり立ち替わりオンラインで参加し、毎回2時間半に及ぶ濃密な議論を7月から8月にかけて、週に2度ずつ合計10回開催するという力の入った計画です(このあとも頼さんは別のテーマで同様の連続シンポジウムを企画開催していますから、そのエネルギーにはただ舌を巻くほかありません)。

 聞くと、頼さんは昨年10月にオンライン参加した成功大学の会議に出席しており、そこでわたしの報告を聞いてくださったとのことでした。あの会ではフロアからいくつもの洗練された質問やコメントを頂戴したので、たぶんその中のお一人だったのでしょう。その後、わたしが上海の出版社から出していただいた『斉物的哲学』を取り寄せて読んでくださり今回の依頼に至ったとのことでした。「共生哲学」を掲げているだけに、UTCPについてもいろいろとご存じで、東大の共生哲学についても話してほしいというリクエストでした。これはわたしの身に余るご要望でしたので、UTCPをずっと引っぱってこられた中島隆博さんにお出ましいただくことになり、わたしと中島さんがそれぞれ1回ずつ発題者もしくはインタヴュイーとして参加することが決まりました(第8回9)。そもそも「共生」という概念を考えるようになったきっかけの一つが中島さんの『共生のプラクシス』であったというのですから、これも驚きではあります。

 議論の内容については、現在、文字起こし原稿の整理に取り組んでいます。やがて中国から何らかのかたちで刊行されることになりますので、ここでは紹介しません。ここでご紹介したいのは、議論のかたちのほうです。

 一つのテーマを設定して、それに関するテクストや題目を選定し、著者もしくはそれに近い人が解題(中国語で「導読」と言います)を行い、それに基づいて頼さんやその同僚のマーク・マッコナギー(Mark McConaghy)さんが批評を提起し、さらにフロア全体で議論するという一連のプロセスが毎回繰り返されます。毎回異なる題目に対して詳細なクリティークで応える頼さんの力がまずは驚くべきものですが、多くの国と都市を結んでテーマが共有され、それを高雄でしっかりとまとめあげていること、台湾と大陸の間での協力体制が築かれていること(上述の刊行計画)、セッションの開催から半月前後で録音の文字起こし原稿が発言者に送付されるという作業の迅速さなど、組織の柔軟さと機動性が際立っていることが、わたしにはともかく最大の驚きでした。これは『老子』の思想を骨肉化している哲学者が中心になっているからこそ可能であるのか、それともよほど強力な制度的バックアップ体制が大学に整っているのか、背景はわかりませんが、リーダーとなる個人の資質に加えて、やはりより集団的なエトスのようなものが有利に働いているのにちがいありません。

 「共生」という概念が台湾から問い直されていることもまた興味深い現象です。「共生」は「co-existence」でいいのかどうか、「symbiosis」ではないのか、という議論もありますが、そのどちらでもないものだからこそ、翻訳がつねに居心地悪く見えるのでしょうし、そもそもこの言葉にはどこかしら根本的に居心地の悪さを感じさせる側面が潜んでいます。中島さんがたいへん興味深い論考を発表なさっていますので、興味のある方は読んでみてください(「わたしたちの共生——パーソナルなものをめぐって」、『世界思想』48号)。中島さんのセッションでも、この論考に示されている「共生」と「共死」をめぐる議論に言及がありました。『荘子』とそれを解釈した章炳麟の「斉物的平等」もある意味、共生の思想であるとは言えますが、倫理と政治の問題としてはやはり「共生」なる概念のこの不気味さを不問にしたままだと、そのテクストも読みきれないように感じます。このあたりはわたしにとっての継続課題です。

 来年には、高雄でこの続きを開催したいとのことですが、COVID-19がそれまでに収束していることを祈るばかりです。

 

報告者:石井剛(総合文化研究科・EAA副院長)