2021年7月5日(月)10:25よりZoom上にて第21回石牟礼道子を読む会が開催された。今回は伊達聖伸氏(東京大学)の授業「世界歴史と東アジアⅢ」との共催で、宇野瑞木氏(EAA特任助教)、髙山花子氏(EAA特任助教)がそれぞれ『苦海浄土』の概略の説明も兼ねて、サークル村の活動や共同体のモチーフを取り上げる発表をした。
「世界歴史と東アジアⅢ」の授業では小国をテーマとして中江兆民、幸徳秋水、鶴見俊輔などのテキストをこれまで読んでおり、今回は石牟礼道子の『苦海浄土』第1部を取り上げるということで、共催が実現した。伊達氏の授業参加者のほか、石牟礼道子を読む会からは、徐嘉熠氏(清華大学大学院博士課程)、建部良平氏(東京大学大学院博士課程)、宮田晃碩氏(EAAリサーチ・アシスタント)、今回から新しく加わった報告者の池島香輝(東京大学大学院博士課程)が参加した。
議論では、まず、『苦海浄土』においては、石牟礼はかなり自覚的に聞き書きという手法を使ったのだという話が出た。実際に石牟礼が所属していたサークル村は、聞き書きやルポルタージュを通して、民衆の「沈黙」に接近しようとしていた。『苦海浄土』には黒子としての聞き手/書き手が存在しており、絶対的無私を軸に書いている、しかし、そこには共同体から逃れられない葛藤も垣間見えるという指摘もあった。
特に議論が盛り上がったのが、石牟礼の描く「されく(漂浪く)」というモチーフであり、居場所の無い漂流するものたちの姿や、石牟礼自身もこの世に所在なさを感じながら生きているということが作品に通底しているのだと議論になった。所在なさというと、『苦海浄土』三部作を読んでいく上で、チッソ側はもちろんだが、患者側の側にもつけない書き手の孤独が伺えることも重要な点である。
移民研究を行っている学生からは、「苦海浄土」を読み、共同体の中で聞き書きをしていくことの難しさを感じたという意見もあり、石牟礼が『苦海浄土』を世に出した際には、村の人に田んぼに落とされたというエピソードが思い起こされた。また石牟礼と対照的に、外から共同体へと入った存在として、水俣病の取材のために来日し患者たちの姿を写真に収めたユージン・スミスも石牟礼と呼応する存在として想起させられた。
また、宇野氏は石牟礼が高群逸枝に大きな影響を受けていたにもかかわらず、フェミニズムには向かわなかったことを取り上げ、言葉による新しい共同体、もう一つのこの世を作ろうとしたのだろうと指摘した。それについて伊達氏は、またそれも新しいフェミニズムの形と言えるのではと加えた。最後に、石牟礼作品の持つポリフォニックな側面にも議論が及び、様々な声が書き手を通して浄瑠璃のようにまとまりを持っていると述べられ会は閉じられた。
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続いて、翌週2021年7月12日(月)10:25よりZoom上にて第22回石牟礼道子を読む会が開催された。今回も伊達聖伸先生の「世界歴史と東アジアⅢ」との共催で行われ、参加メンバーがそれぞれ前週の授業を経て、『苦海浄土』第1部を読んで考えたことを簡単に発表した。石牟礼道子を読む会からは、宇野氏、髙山氏、宮田氏、建部氏が参加した。伊達氏がまず、鶴見俊輔と石牟礼の繋がりを簡単に説明し、小国論に引き付けて発表した。同時代の知識人との関わりは今後石牟礼を考える上でも重要な視点である。宇野氏は、説教浄瑠璃が注目を集めた時代と執筆時期が重なっていることも含めて、『苦海浄土』の中の浄瑠璃的な要素を指摘しつつ、同時代的なものに敏感だった石牟礼は、その生い立ちからも伺えるように、耳学問で聞いたものもすぐに自分のやり方に変換できる人だったのではないかと述べた。このような石牟礼の特質は、「苦海浄土」の「のみくだす」という言葉によく現れているのではないかという指摘もあった。
学生の発表では、『苦海浄土』で水俣病患者が値付けされる箇所に着目し、現代における人々への値付けや出稼ぎについて語られた。バングラデッシュを例に、階級間の転落が容易なことや病気、誹謗中傷など、『苦海浄土』から考えられることがたくさんあると述べられた。また、現在のコロナ禍において読む意義、隠れキリシタンの話題も出た。
苦海浄土に描かれる、共同体における差別や排除は現代を考える上でも読みの可能性を秘めており、現代のアクチュアルな話題においても示唆の多い部分である。隠れキリシタンについては石牟礼の『春の城』で描かれているので、今後詳しくみていきたい。建部氏は、文学が社会性を持つのはいかなる時か、それを可能にするのはどんな作品、文章なのか考えていきたいと述べた。「なにか対なにか」という二項対立では無い、葛藤を含んだ言葉は、石牟礼作品が我々に訴えてくるものであると言えるだろう。
また田中浩喜氏(東京大学大学院博士課程)の発表では、文章に着目するかたちで、説教臭くない石牟礼の文体について語られた。魂などといった一見すると使いづらい言葉を使う石牟礼の文章のある種の歪さが、その魅力を支えているのでは無いかと指摘された。宇野氏はそれに対して、石牟礼の言葉を介して森羅万象が、石牟礼の存在よりも水俣を宗教化させていくのではないかと述べた。加えて髙山氏は、石牟礼作品には生活があり、生活が祈りとなり念仏となっていくような力があると指摘した。最後に、東日本大震災や現在のコロナ禍を踏まえて、災後文学として『苦海浄土』を読む重要性が取り上げられ、会は閉じられた。
二回に渡る読む会を通して感じられたのは、『苦海浄土』という作品が含んでいる読みの可能性の大きさである。渡辺京二は石牟礼作品の特徴をワールドではなく、コスモスだと指摘したが、『苦海浄土』という作品はまさにその中に、いくらでも彷徨うことができる宇宙を内包している。石牟礼作品、しいては石牟礼道子を文学研究以外の視点から考えることは、そのようなコスモスを、日本文学の枠のみならず、東アジア、さらには世界に開いていくことだと言えるだろう。
報告:池島香輝(東京大学大学院博士課程)