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2021.06.04

【報告】第18回 石牟礼道子を読む会:石牟礼道子の新作能「不知火」鑑賞会

2021525日(火)1530分より、駒場キャンパス101号館のEAAセミナールームにて第18回「石牟礼道子を読む会」が開催された。今回は石牟礼道子作の新作能「不知火」を、高橋悠介氏(慶應義塾大学)、倉持長子氏(聖心女子大学)の解説・発表付きで鑑賞するという趣旨である。参加者はゲストスピーカーの二氏のほか、鈴木将久氏(東京大学)、山田悠介氏(大東文化大学)、宇野瑞木氏(EAA特任研究員)、髙山花子氏(EAA特任助教)、建部良平氏(東京大学大学院博士課程)、そして報告者の宮田晃碩(EAAリサーチ・アシスタント)の計8名であった。

 

まず、高橋氏の解説つきで新作能「不知火」の映像を鑑賞した。映像は、2002718日に国立能楽堂で上演されたものの録画である。

解説は、筋書きや所作の意味のみならず、登場するモチーフがどのような含意を伴っているか、能の約束事に照らしてみたとき「不知火」の演出はどのようにそれに従いあるいはそれを破っているか、また石牟礼の原作と上演版の台本を比べたときどのような変更が加えられているか、といったことにもわたった。舞台はそれ自体で美しいものであったが、こうした解説なしでは「不知火」の表現しようとする世界にさらに接近していくことは難しかったと思う。

 

 

簡単に筋書きを紹介しよう。「不知火」は、毒にまみれた大地と海の浄化をひとつのテーマとしている。シテにあたる不知火は「海霊の宮の斎女、竜神の姫」である。その弟、常若(竜神の王子)と不知火とは、それぞれ大地と海にあって、「この世の水脈のゆたかならんことにたづさはり、心魂を燃やして命の業をなす」こととされていた。だが毒を浚いつづけた常若はすでに息絶え、不知火もまた命尽きようとしている。そこで死者の魂を弔う隠亡の尉(ワキにあたる)は、反魂香(死者の魂を呼ぶ香)を焚き、常若と不知火とを渚に呼ぶ。不知火は救いのない惨禍を省みて「わが身もろとも命の水脈ことごとく枯渇させ、生類の世再度なきやう、海底の業火とならん」と嘆き狂うのだが、それに対して、菩薩としての姿を現した隠亡の尉は、不知火と常若とを再び会わせ、次の世では二人を妹背の仲にせんがために、いまここに二人を呼んだのだと告げる。不知火と常若とは、ただ互いに会いたいがためにつとめてきたのだと語り、「回生の勤行にとりかからん」と、祝婚の舞を舞う。最後には菩薩(隠亡の尉)の呼びかけによって、虁(キ)と呼ばれる仙獣が呼び出され、「わが撃つ石の妙音ならば、神猫となつて舞ひ狂へ、胡蝶となつて舞ひに舞へ」と言い、不知火、常若と共に舞って終演となる。

 

静かな興奮に包まれたなかで、高橋氏による「新作能《不知火》と能の古典作品」と題された発表がなされた。原作と上演版とを比べてみると、随所に工夫が加えられていることが分かる。たとえば上演版では冒頭に「次第」と呼ばれる文句が挿入されている。これは能の約束事でもあるが、一曲のテーマを暗示し、かつ『苦海浄土』を読んだことのある人にとっては一気に心を惹きつけられる演出となっている。「繫がぬ沖の捨小舟。つながぬ沖の捨小舟。生死の苦海果もなし」。これは『苦海浄土』冒頭に引かれた、「弘法大師和讃」の一節である。

演出においてもかなり大胆な手法が取られている。能では登場人物のほかに「地謡」があって場面や情景を謡い上げるのだが、「不知火」ではさらに「コロス」が登場する。白装束をまとって両手には和紙で包まれた球形の灯りを捧げ、これが死者の魂魄をあらわしている。通常の能の舞台よりも暗くして、この灯りが人物を照らすようにしている。また能ではしばしば作り物が宮をあらわし、そこに登場人物が出入りするのだが、「不知火」ではそれが菩薩の入る「薫香殿」として、また隠亡の尉の小屋として用いられる。

こうしたことを確認しながらあらためて指摘されたのは、この能がひとり石牟礼の手になるものではなく、文字通り多くの人の力をあわせて作られているということである。もちろんそれは上演版の台本に梅若六郎その人をはじめとする錚々たるお名前が節付や囃子作調等に並んでいることからも分かることだが、単純にそれぞれの役割において協力があったという以上のものが、ここにはあると思われる。例えば「次第」の文句を持ってくることや、「コロス」に死者の魂魄を担わせることなどは、相当深く、石牟礼の描く世界を理解したうえでの演出であろう。また同時に、石牟礼自身の言葉がはじめから、能の言葉として響くものであったということも指摘された。実際、上演のために変更されている箇所も多いが、しかし言葉づかいなどはほとんど原作そのままで上演されている。石牟礼は二度しか能の舞台を見たことがないと言うのだが、世阿弥の『風姿花伝』を座右の書にしていたとも言う。してみれば「不知火」という能は、単に石牟礼の描く世界を能の形式にあてはめたというものではなく、むしろ根底において能と通ずるものを、あらためて能という形に表現したというものなのだろう。そこには、能という芸能それ自体への解釈がはたらいており、そこに能の大家も石牟礼も、共に参与したのだと言えるだろう。ただし一方では、上演にあたって削られた箇所に、海と山の関わりや家族の関わりなど、重要なモチーフが凝縮されているということも指摘された。舞台としてのまとまりのために削られた箇所も、それはそれで思いを致すべきところがある。

 

高橋氏による発表につづいて、倉持氏による「能《不知火》にみる救いー能の枠組みを超えてー」と題された発表があった。「救済」という観点から、どのようにこの能を受け止めることができるかという趣旨での解説である。石牟礼が繰り返し語っているイメージとの重層性を踏まえての発表であった。

そもそも能は、宗教による救済劇としての側面をもっている。それは人のみならず草木にも及ぶものである。毒にまみれた山河と生類の救いを願うものとして、「不知火」も理解できるだろう。だが他方、石牟礼は「水俣の人々が体験した受難」が、これまでの一切の宗教の限界を突き付けるものであるとも語っている。そして同時に、却ってこの受難が「次の世紀へのメッセージを秘めた宗教的な縦糸の一つ」になるかもしれないと言う。そうだとすれば「不知火」は、能による救済の可能性自体を問い質す、能の「臨界点」として捉えられねばならないだろうと倉持氏は指摘する。

取り上げられた様々なモチーフのなかでも、「香り」と「舞い」についてここでは簡単に紹介したい。劇中では反魂香が不知火と常若とを呼び出す役割を果たすのだが、同時に橘の香りも懐かしいものとして何度も語られ、不知火を呼び出す役割を担っている。ここには常世の国の「ときじくの香の木の実」のイメージが重ねられているうえ、漁場を奪われた人々が水俣の再生をかけて育てた甘夏やデコポンといった柑橘のイメージも重ねられているかもしれない。橘の香りは、現実と神話とを媒介し、また希望のよすがとして働いているのである。またそれが嗅覚に訴えるものであるという点も注目に値する。水俣病の患者の特徴的な症状に、視野狭窄や言語障害、知覚の鈍麻がある。そのようななかで残されたのが嗅覚であった。しかしこれは残酷な一面も想起させる。『苦海浄土』の印象的な箇所に、「熊本医学会雑誌」からの引用がある。そこでは「猫における観察」が淡々と綴られている。そこで報告されているのは、猫が嗅覚を刺激として、踊るような痙攣発作を起こすという様子である。希望は極めて両義的なのだ。このことは、一曲を締めくくる「舞い」にも通ずる。

「不知火」の最後は、虁(キ)の打ち鳴らす磯の石の音に合わせて不知火と常若が、また「神猫」や胡蝶が舞う、というかたちで終わる。原作では「いざや橘香る夜なるぞ。胡蝶となつて華やかに、舞ひに舞へ」となっている。ここで思い浮かべられるのはやはり、「舞う」「踊る」と形容された、水銀に侵された猫の姿であり、「失調性歩行」と呼ばれる水俣病特有の歩き方をする患者たちのことだろう。虁の打ち鳴らす石も、水銀まみれの渚の石である。この舞いは決して、万事がめでたく済むことを祝うようなものではない。むしろこの永遠に続くかのような「狂い舞い」をもって「創世」となさんとする、極めて痛切な祈りがある。そしてそれを美しいものとして現出させようとするのである。その残酷さが、祈りの深さを示している。倉持氏はそのような「臨界点」を、この能に見出す。

 

その後の議論では、上に触れたような石牟礼の創作の底流にあって古典芸能と通ずるものや、また最後に登場する虁(キ)に関連して、白川静が紹介する中国の神話にも話が及んだ。また能という形式でこそ表されるものについても語られた。例えば常若は「蝉丸」の面をつけている。これは盲目の面である。死者として登場した常若は、不知火とは対照的にはっとするような無表情さの印象を与えるのだが、ここにはその面の効果もあるかもしれない。さらには能に特有の「ポリフォニー」がある。地謡や登場人物、ひょっとすると観客としての私たちは、同じ場所にいながら、あたかも異なる時空が重なるような仕方で響き合っている。オーケストラのような調和とは、それはやはり異なる。この独特の多声性は、『苦海浄土』にも響いているものではないか。報告者の私としては個人的に、超常の神話をたまたま遙かに目撃してしまったような感覚を抱いた。能の台詞は慣れない耳に決して聞き取りやすいものではないが、しかしそれも当然のことと思われた。日常の言葉とはまったくモードが異なるのである。

 

当初予定されていた時間を大幅に超え、外は既に暗くなっていた。残念ながら、そのまま食事を共にするというわけにはいかない。眼裏にあの「魂魄」の灯りを浮かべながら、私たちは三々五々帰路に就いた。

 

報告:宮田晃碩(EAAリサーチ・アシスタント)
撮影:髙山花子(EAA特任助教)