この1年間、RAとしてお世話になりました。3月末をもって任期を終えるとともに、5年間の博士課程を終えることにもなります。リサーチ・アシスタントとは言いながら、何より学びの機会をいただいており、それにどう報いるべきかということを考えるためにも、いささかこの間のことを振り返りたいと思います。「哲学」に携わる者としてどういう景色が見えているのか、そのことを自分のためにも確認しておきたいと思います。
思えば多くの自由を駒場で享受してきました。学部には理系で入学しましたが、自分で考えるということを突き詰めたいという理由で、新設された駒場の「現代思想コース」に進学しました。中島隆博先生の演習でデリダやレヴィナスを(翻訳ですが)読んで議論したり、石井剛先生の授業で戴震の思想と哲学に触れたりしたことをよく覚えています。卒業論文では「問い」について書きました。自由に考えてよいという気風において、これほどの場所はなかったと思います。修士課程からは主専攻に加えてIHS(多文化共生統合人間学プログラム)というプログラムでも様々な経験と学習の機会をいただきました。そこからの繋がりで、地球研(総合地球環境学研究所)でインターンシップをさせていただいたことも大きな経験でした。そうした恩恵と一続きになって、EAAでの活動があります。すべてが網の目のように連なっていて、まだ私も見通せていない広がりのなかの結び目のひとつに、いま立って考えているような次第です。
RAとして具体的に携わったのは、いくつかのイベントや授業の報告書の執筆と、学部生向けの「東アジア教養学」の授業のTAでした。またRA着任以前から、「石牟礼道子を読む会」に参加させていただいておりました。
報告書を書くというのは些細な作業のようで、存外多くのものを背負っている、というのは恥ずかしながら最近気が付いたことです。それはもちろん講演の内容やイベントの模様を正確に伝えねばなりませんが、同時にその読み手を想像する作業でもあり、そのなかで自らの態度を文体に反映させる作業でもあります。話を大きくするならば、世の中には既に多くの書物があり研究があり営みがあるわけで、それを「伝える」というのは何か新たなことを「論ずる」というより根底的なことなのかもしれません。「聞き書き」的なものへの関心が自分のなかに育ってくるに従って、また情報の伝達がますます容易になる様を見るにつけても、伝えるというのは謙虚さを必要とする重要な営みであると思われてきます。
TAとして参加した佐藤麻貴先生、張政遠先生の授業では、受講生の皆さんと、また先生方と「共に考える」という貴重な機会に与りました。単に一定の知識を伝授するというのではなく、毎回が受講生、先生方、そしてRAにとっての挑戦という趣きで、十分に役割を果たせていたかは甚だ心許ないのですが、幅広い問題をいわば「例題」としてではなくまさに自分たちがそこに身を置く問題として見据えながら、それぞれに自らの知識を試し、なお学ぶべきことを明らかにしていくというあの時間は、他に代えがたいものだったと思います。ただそれだけに、なかなか同じ場所に集まれなかったのは心残りです。互いの考える姿、語り合う姿をもっと間近に感じられればと強く思ったものでした。それでもこの縁は再びどこかで、何かの形で繋がるものと思います。
「石牟礼道子を読む会」は髙山花子さん、宇野瑞木さんを中心に企画され、2020年6月から様々な形で実施されてきました。『苦海浄土』3部作とそれに関わる論文を読むことから始まり、文章に留まらず映画や能などにも触れながら続けられ、シンポジウム形式のワークショップは3回開催されました。鈴木将久先生が「オアシスのような」といつか表現されたように、テクストや思想を通じて、心を深い水脈に通わせるような会だったと思います。もともとパンデミックに際して何ができるかと企画された会で、学ぶことも多くありつつ、私にとっては「文」そのものが既に実践であり人を生かすものであると思わせる会でもありました。これも感謝が尽きません。
学ぶべきことの多さをあらためて知る1年でした。これは己の至らなさや課題を知るということでもありますが、私一人のみならず「学ぶ」ということ自体が追求され墨守さるべき営みなのだと感得することでもありました。学ぶことの根幹には、何かを大切にするということがあります。学者が文字通り「学ぶ者」であるとすれば、その成熟とは、ますますよく学びうる者になることであろうと思います。例えば具体的な話として、私はハイデガーという哲学者のテクストを一次資料にして研究をしていますが、その研究が学問として今日性を持つためには、ハイデガーの「理論」を様々に「応用」して新たな「説」を立てるのではなく、むしろハイデガー的な問いを携えて世界に臨むなら私たちは何を(ハイデガーにではなく)世界に学びうるだろうか、ということを考えねばなるまいなどと思います。それがハイデガーという哲学者への誠実さであろうとも思います。
つねに途上にあらざるを得ない「学ぶ」という営みを支え続けるのは容易ならぬことで、私の認識しきれない大きな支えが内外にあってEAAは成り立っており、その一翼を拙くも担わせていただいたことは大変な光栄です。この場を借りて改めて、お世話になった皆さまに感謝申し上げるとともに、今後益々の学問の豊穣を祈りたいと思います。誠にありがとうございました。