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2022.01.19

鵬程万里:RA任期を終えて 05 高原智史さん

高原智史

 

個人と大学院教育の可能性を拓く

 

2019年春から2年間務めてきたEAARAももう終わりかと思っていると、特定のプロジェクト付のRAとして、さらに務める話が舞い込み、3年目となった。

特定のプロジェクトとは、藤木文書アーカイヴと、101号館映像制作プロジェクトとである。前者は、これまでのRA業務からの継続、後者は新規プロジェクトとして進められた。それぞれについての概略は、「藤木文書アーカイヴ」プロジェクト始動や、第1回 101号館映像制作ワークショップの記事をご覧いただきたい。

さて、前回の離任エッセイでは、「書院」としてのEAAにつき、場所性ないしは人的つながりの観点から書いた。今回は「事業」としてEAAの活動をとらえ、それとEAAが掲げる(東アジア発の新しい)リベラルアーツとの関わりについて述べたい。

まず、藤木文書アーカイヴから始めよう。前回の離任エッセイでも、藤木文書の作業は、思想史研究者として資料を「読み込むのに比べて、歴史研究をしている「感じ」が強くしたのを覚えている」と書いた。その「感じ」は、「出土」した資料を分類整理したにとどまっていた当時から、資料についての関連研究を進め、博物館での展示を準備している最中という今現在に至って、「手ごたえ」にまで高まってきている。

資料を読み込み、論を立て、記述するというのも、一つの制作には違いない。筆者の遂行している思想史研究では特に、そうした制作は、文字資料を読み込み、文字に落とし込む、言語によった制作ということが中心になる。藤木文書アーカイヴのプロジェクトでは、表現内容以上に、物的な資料への対応が必要となった。いわゆるテクストの資料操作とは別の心得が必要となり、慣れないうちは苦労もした。しかし、資料の「手触り」に慣れてくることを通じて、資料を情報としてしか見られていないうちには得られない、上述の「手ごたえ」が出てくるのだと思う。

以上の「手ごたえ」が、資料を読むことからのもの、インプットのそれであるとすれば、展示を準備するうちに得られるのは、アウトプットのそれである。物として、また情報としての資料を、実際の空間にいかに配置するか。それにはやはり、論文の構成をどうするか、どの論点をどのように組み上げるかという、言語制作上のそれとは異なる心得が必要となる。

電子データがWeb上にある論文でも印刷して読む、そうして鉛筆で線を引くという、なお「アナログ」な人間である筆者であるものの、思想を相手に研究をする上で、どうにも、情報としての思想に傾斜して、それを載せている物、媒体には目を向けてこなかった憾みがあった。藤木文書アーカイヴに携わることで、ただ文献を読み、論文を書くという通常の研究をしているだけでは得られなかった、上述のような「手ごたえ」を得ることができた。それは、思想を、そうして歴史の「息吹」を感じ、現在に「受肉」させることにつながるのではないだろうか。

 

続いて、映像制作プロジェクトについて述べる。本作の予告編をそろそろ公開できるだろうという段になっているが、今回の映像は、現代において一高を研究しようとしている大学院生と、歴史的な一高生の生活の二つのパートが二重写しになる形で構成されている。この構図は、EAAの一高プロジェクトに関わり、自身の研究対象も一高に置いている筆者に特に合致するが、通常の研究活動では、研究者のパーソナリティの部面は隠される。

自身の遂行している研究の意義というのも、自分にとってというのは、少なくとも表向きは問われず、または捨象され、学界や社会への貢献など、社会的ないし公共的な部面のみが問われるのが普通である。職業研究者であれば、そうあるべきかもしれないが、リベラルアーツとしての学びにおいてもそれでよいのだろうか、というのがここでの問いである。また、職業研究者であっても、自己の内的な欲求の面と、社会公共に訴えんとする面とが実際には、折り重なっているのではないだろうか。

有用性や明確な指標で研究の価値が問われることが多くなっている現在、自己の実存にとっての自分の研究の価値というのは打ち出しにくくなっている。しかし、逆に、それが十全に打ち出せてこそ、「新時代のリベラルアーツ」という理念を押し出すことにつながるのではないだろうか。

また、本作はメイキング映像の制作、公開も予定されている。通常、論文はそのものとして評価され、執筆過程は評価されず、そもそも表に出ないことが普通である。映像作品となると、それがメイキングという形で(それを特に残そうとする意欲と努力が必要だが)十分に残せることになる。研究に関して、「有用性や明確な指標で研究の価値が問われることが多くなっている」としたが、そういう結果にばかり目が行きがちな状況の中で、過程に目を向けてもらうという点において、映像制作というプロジェクトは、学術活動の評価軸の転換を社会に対して訴えるという点において、ふさわしい営みであると考える。

 

以上、二つの、文献を読んで論文を書くという通常の研究とは異なる研究事業に携わることを通して、筆者の通常の意味での研究にも幅や厚みが出てきたと思う。大学院教育の意義、特に職業研究者になるのではなく経済社会に出ていく場合のその意義につき、懐疑的な意見も多々見られる中で、EAAで展開されているこのような事業に携わることは、その先どのような世界に進むにせよ、有効でありまた必要なリベラルアーツを得られるものであると強く感じる。EAAの試みは、一人の学生の幅を広げ、また大学院教育の可能性をも広げるものだと考える。第二期へと続いていくEAAが(あるいはEAAとはまた別の形に昇華して)、そうした、幅や可能性を広げていく「制度」にまで高まっていくことを願って、二度目のRA離任のエッセイを擱筆したい。

 

撮影:立石はな(EAA特任研究員)