張 瀛子
「東アジア藝文書院」がその名にちなんでいる『漢書』「藝文志」は、私の研究分野にあって必ず参照される基本文献の一つです。その知的意味は言うまでもないほど重要でしたが、それはあくまで学術的な専門内部の話でした。古典用語である「藝文」へ知的活動における現在的な新しい意味を与えていく東アジア藝文書院の活動へ、成立初期から幸いにも参加させて頂き、非常に充実した2年を過ごすことができました。「卒業」を迎えた今、何よりもまず、東京大学・北京大学はじめ全ての先生の方々、スタッフとプログラム生の皆様に感謝を申し上げます。
2年間に起こった印象的な事は枚挙に遑がなく、その中からどれを取り上げて記念エッセイに記すのかは非常に悩ましい課題でした。最終的に私は、学術フロンティア講義「30年後の世界へ」で一人の生徒から聞いた次の質問を選ぶことにしました。
「どうして私たちは古典を読むのか?昔の人は今の人より優れているのか?」
非常に素朴であり、同時に核心に迫るこの問いは、若い学生ならではの率直・誠実さに溢れており、古典学の根幹をなす「過去は今にとって意味がある」という前提を揺さぶるものです。象牙の塔へ生きる者へのこうした刺激は、私にとって、東アジア藝文書院のプログラムが与えてくれた最大の贈り物でした。それは社会と学術をつなごうとする貴重な思考の機会を与えてくれるものでした。そしてこの問いは、新型コロナウイルス感染症が私たちの世界を目に見える形で変えてしまった今、より大きな意味を持つようになっていると思います。
インターネットに代表される現代メディアは、秒毎の情報更新により、昨日の事すら古く感じさせてしまいます。コロナという歴史的な事件が加わったことで、2020年以前の世界は、今やすでにツヴァイクが描く「昨日の世界」のような別世界となってしまいました。従来の「普通」が消え「新しい日常」が急激に始まる中、これまでの自分の生活は何だったのか、これから何が起こるのかについて知りたい時、インターネット上であっという間に流れ去る「リアルタイム」を見続けても、答えは出て来ないでしょう。そこには思考する余裕がほとんど無く、反省抜きの「現在」しか表象されないからです。従って、過去と対置されてから始めて「今」は理解可能となることを、私たちは身をもって経験したのではないでしょうか?
東アジア藝文書院では、プラトンの『饗宴』や中国の『荘子』など千年以上昔のテキストだけでなく、福沢諭吉の『文明論之概略』のような近代の著作も多く講読に用いられます。伝統的な古典学、あるいは特定の文化における古典でなく、「世界」を念頭に多様な時代のテキストを取り上げられているのです。これからの時代に向けての新しい過去への理解、教養としての古典学の再構築だと言ってもよいでしょう。共同でのテキスト講読のなかで、私が特に印象的だったのは、学生達がどのような文化的背景のテキストも、言語の壁を乗り越えて、決して他者的なものとして扱ってはいなかったことです。学生たちはそれらのテキストを、自分の経験と引き合わせ、自分たちの現在と未来を構想する糧としていました。彼らのビビッドな思索から、私は学問の本来的な意味とパワーを感じていました。
古代中国の思想家・荀子は、「古代のことを語ることに長けた人は、必ず現在にその証を確かめている。天について語ることに長けた人は、必ず人の間にその証を確かめているのだ。」(故善言古者、必有節於今。善言天者、必有徵於人。(『荀子』性悪篇))と述べました。これに対し、19世紀フランスの思想家トクヴィルは、進行中の革命がもたらしている前代未聞の変化を論じる中、過去がもはや人類にとって参照すべき価値が無くなったことを、次のように表現しています。「過去はもはや未来を照らさず、精神は闇のなかを歩んでいる。」(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』) 過去を切り離したいとの欲望は近代に顕著な傾向であり、私たちにとっては荀子よりトクヴィルの言葉の方に真実味を感じるかもしれません。しかし私は、コロナ下の閉鎖的な環境において、古典を読み天(自然)と人間について深く思索する東アジア藝文書院の活動へ、未来を照らす光を確かに感じています。
2年間、自分の未熟さを含め、たくさんの人々に多くの事を教えてもらいました。この経験を今後につなげていけば、すぐにまた皆様とお会いできると信じています。東アジア藝文書院の活動の一層の発展を心から祈っております。
写真撮影:高山花子(EAA特任助教)