本屋さんに行けば、「教養としての○○」といった本がずらりと並んでいる光景を、かつての自分は眉をひそめて見ていた。「教養」は輝かしいものだから、こんなに簡単に手に入るはずがない――そんな「教養」原理主義を抱いていたのだ。なぜなら私は、人に見せびらかすための豆知識の蓄積のような俗なる「教養」よりも、心を潤し人格を高める聖なる「教養」にこそ酔心していたからである。
その理由は、コロナ禍で家に閉じこもっている間に旧制高校関係の本を読み、それに触発されて抱いた“旧制高等学校コンプレックス”にあるのだと思う。おそらく、ほとんどの人間が経験せざるを得ない「自我の確実性」に対する懐疑、すなわち「煩悶(神経衰弱)」と呼ばれる状態を打開するために、まだ見ぬ時代の漠然とした「教養」という二文字に己の希望を託したのだ。
「教養」を身につければ、立身出世の俗念を捨て、ひたすら人格の光を輝かせる立派な人間になれるだろう。ただし、そんな「教養」論を抱いた時点で、私はすでに令和初期の日本や出身の中国大陸社会における「不教養」の現状を見下す快感に浸っていた。
そして実際のところ、私は古典をじっくり読むよりも、「本を読んでいる自分」をアピールすることのほうが好きだったにもかかわらず、偉そうに時代錯誤を作り出し、旧制高校時代の「教養」をもって現代社会の「教養」に君臨しようという野望まで抱いていたのだ。
もちろん「煩悶」に対する速攻法としては、瞬間的な効果があった。しかし旧制高校の「学歴貴族」たちが立身出世を嫌う前提のひとつには、彼らの進路がすでに制度的にある程度保証されていたことがある。それに比べて私の場合は、就職活動の行き詰まりや恋の迷走、さらに大学院進学への不安といった、ごく目の前の悩みの逃げ場にすぎなかった。
逃げ場としての「教養」だったはずたるものが、こんなに時代差があって、しかも複雑なものだとは思わなかった。その後の挫折は、思い出すたびに胸が痛むので割愛するが、「教養」の独特の難解さを数年かけてようやく体得した、愚痴っぽい自分がいる。
院進した後、ほぼ毎日「東京大学教養学部」の門札を横目に通う私は、いまだ「教養」に対する不安を完全には拭いきれていない。「教養」への憧憬がいまだに冷めていない自分の心の動きを自覚するたびに、これからまた迷走してしまうのではないかと不安になる。なぜ「教養」だったのかという難問は、この身でまだ体得しきれていないからである。
わからないのに物を追いかけるただ一つの理由は、それが“光あるもの”だと信じるからである。しかし、光あるものへの接近法を習得できる場所といえば、「教養学部」を名乗る駒場が、正規課程のなかで必ずしもそうした環境を提供しているわけではないように思われる。念のため付け加えるが、これは駒場批判ではなく、学問が細分化され、人文系が軽視されているという世界規模の現象の一例にすぎない。
幸い、駒場には多くの組織や個人が動き始めており、東アジア藝文書院とそこで活動する方々も、そのひとつとして力を注いでいる。書院ではゼミ(東アジア教養学)で古典を購読し、連続講義や研究会、読書会なども数多く開かれているため、旧制第一高等学校(寮生活)の面影を感じさせてくれるだろう。しかも同時に現代の立身出世の妨げにならず、コミュニケーション能力と思考力の育成はもちろん、単位も取得できる。
こうした授業やイベントを通年で補助してきた私としては、責任をもって皆さんに呼びかけたい。光あるものを探す仲間が集う場として、ぜひ駒場の東アジア藝文書院へいらしてほしい。
一方、光あるものは手も目も届かない高遠な場所にあるため、人間は目標を設定しただけで「教養」の役割を終わらせてしまう場合も多い。また、光あるものに安易な解釈を施し、あたかも到達したかのような錯覚を与えている知識人や出版業者の存在も否めない。つまり、このような陰翳が光あるものにも潜んでおり、我々疲れた青年たちの桃源郷を装ったものも、この世の中に満ちている。
真摯に「教養」に向き合おうとする青年の一部も、やがてそうしたものについ呑み込まれてしまうため、「教養」の見分け方、言い換えれば「教養」という概念に関するセンスを養うことが非常に大事である。そして、東アジア藝文書院がこれをどのように扱っていくかというのも、大きな課題の一つだろうと考える。

