東アジア藝文書院のリサーチ・アシスタントを離任するにあたり、今、心は感謝と緊張の気持ちに溢れています。
EAAとの出会いは偶然なものでした。修士課程時代の指導教官・大澤聡先生が2023年に EAAの批評研究会に招かれて講演を行った時に、参加するために初めてEAAのゼミルームに訪れました。駒場の他の教室とは違い、対話のための空間作りがなされた部屋だなと、当時感じた記憶があります。「場」にこだわるEAAを代表する場所でもあったでしょう。その後、私自身がその場で授業のお手伝いを始めた時にも、同じ気持ちを再確認できました。
なぜこのような「場」がEAAにおいて可能なのか。中島先生、王先生、ユジン先生を始めとする先生方の授業に参加していく中、その理由が少しずつ理解できました。EAAでは細分化されたアカデミズムとは異なり、より総合的、批評的、そして社会と世界に繋がる学問を求めています。それは、ソクラテスの哲学が文書ではなく、対話の中から生まれたものであるのと同じように、ある意味で最も正統的な(この言い方は怒られるでしょうか)哲学です。EAAがやろうとしていることは、まさにこのような思想のあり方にあるゆえ、独特に感じられたと思いました。これは、戦後日本の批評という営み、すなわちアカデミズムと民衆を繋げる第三極の役割とも類似していると思っています。
私は個人的に、アカデミズムより、この「批評」と呼ばれる試みに大変関心を持ち、魅力も感じていました。しかし、大学院博士課程で植民地文学の研究を始めると、その関心はどんどん削がれていきました。なぜなら、批評理論を通して植民地台湾の文学作品を論じることの「地に足が付いていない」感覚に、不安を感じたからです。やはり、まずはしっかりと歴史実証、文脈考察をしなければ、作家に対して失礼なのではないかと。この揺れる気持ちを抱いたままEAAに参加していいのか、という不安とともに、私は博士課程の四年目をEAAとともに過ごしました。
この悩みは、今解消されたのかと問われると、甚だおぼつかないのですが、EAAの現場から、ヒントをたくさんいただきました。例えば、協力をさせていただいたシンポジウム「吉田健一の文学」における、演劇も含めた自由なプログラム構成や討議の内容に、私は驚きました。また、私がRA研究発表会で失礼ながら日本近代の転向文学というマイナーなテーマを発表したのにもかかわらず、コメンテーターの石井先生から戦後台湾との比較や「遺民」というキーワードをいただいたことも、今でも心に深く残っています。さまざまのジャンルを横断する研究活動の自由さを、私はEAAで改めて学びました。狭い二項対立に悩むより、もっと広い考え方があるのではないか。実証も批評もできる限り頑張ってやればいい。その上で、外部の領域にどこまで繋がっていけるのかを考えるべきだ。そんな、当たり前といえば当たり前なことを、私はこの一年を通して改めて学び直しました。
植民地研究の領域では、「植民地近代性」という言葉があります。2000年代以降、旧来の「抵抗/協力」という二項対立の図式から異なる視点を見出すために、アメリカの朝鮮史研究者によって最初に提唱されたものです。そこで注目されたのが、近代の都市空間における日常生活や娯楽、そしてそれら近代的なものの出現による主体形成の過程です。思えば、アジアにとって、西洋的なアカデミズムもまた、近代以降に輸入されたものです。「批評か、実証か」という私が抱いた二項対立の悩みもまた、「植民地近代性」の観点から脱構築可能なのではないか。EAAの実践もまた、そんなことを思い出させてくれました。
今後、EAAから離れますが、この場で行われるイベントにもまた参加したいと思いますし、ここから頂いた思考のヒントと課題は、一生心に留めていきたいと思います。中島隆博先生、石井剛先生、王欽先生、張政遠先生、具裕珍先生、髙山花子先生、RAの皆さま、その他お世話になった方々には、厚く御礼を申し上げます。未熟の私をこの一年間支えてくださったことを、心より感謝しております。