時間が経つのは早いもので、あっという間にRAの2年の任期を終えることになりました。離任にあたって、名残惜しい気持ちがいつまでもやみません。
EAAでRAを担当する体験は、職員として一生懸命業務をこなすというより、むしろ学生のように思想と文化の最前線にアクセスする喜びに満ちたものでした。この2年間、私は東洋と西洋の知識の海を自在に泳いでいるかのような思いでした。いま思えば、私自身がEAAに貢献したことに比べて、EAAから授かったことの方がよほど多かったと言っても過言ではありません。
私とEAAのご縁は、田中有紀先生が主催されたシンポジウム「東アジア音楽思想における和」(2020)から始まりました。私は中国と日本における洋楽受容と近代化を研究していますが、東京大学で前近代の東アジア音楽に関するシンポジウムに参加したのははじめてでした。東アジア音楽と言えば、多くの人は笛、琵琶、笙、琴などの民族楽器、あるいは雅楽、能楽、京劇、演歌、民族歌謡などの伝統的な芸能や音楽ジャンルを想起するかもしれません。しかし音楽思想の研究とは、音楽作品や音楽家を中心とする「聞こえる音楽」の探究というより、むしろそのような音楽を生み出す社会に潜む世界観や政治思想、いわば「聞こえない音楽」の世界を追究するものです。周知のように、儒家の音楽思想としての「礼楽」は、儀礼と音楽の総称と見なせる一方で、音楽を通じて社会の理想を実現しようとしたものだとも言えます。
『中国の音楽思想:朱載堉と十二平均律』(2018)において、田中先生は朱載堉の事例を通して、「東アジア音楽思想における和」とは何なのかをより明確に解釈しました。そこでは、「朱載堉が目指した調和とは、音律が、暦法や度量衡、そのほか人間世界の様々な制度と連関しあい、象数易(数理的易学)によって基礎付けられ、すべてが永遠に循環する世界であった」と指摘されています。さらには、『四庫全書総目提要』において「律呂を議論し雅楽を明らかにするもの」が経部に属すると明確に定義され、音楽と王朝の正当性及び権威の象徴の関係をも示されました。
『論語』における詩や礼が、その学びを通じて社会を生きるための基礎知識を身につけるものであったとすれば、楽はわれわれが「和」を身につけるための教養でした。とすると、「和」とは、人の内面と身体の共鳴や人と自然の共生を可能にする、調和をもったリズムでもあると考えられます。音楽の魅力はリズムの多様性にあり、それは音楽がなぜリベラル・アーツに含まれたのかにも関連しています。私は、音楽思想によく現れるこうした「多様性への追求」を、できるだけ自分のRAの仕事に活かそうとしました。
EAAのRAを担当して以来、しばしば耳にしたキーワードのひとつは「共生」でした。1年目の際、東アジア教養理論・実践の講義では、環境哲学を専門とする佐藤麻貴先生を講師に迎えました。佐藤先生は理系から文系へと転向した経験を持ち、政府組織、大学や国際企業、国際組織など様々な現場に携わった学者でもありました。佐藤先生の講義を通して、これまで人文系では触れたことがほとんどない脱炭素や脱成長、人工知能の知識に触れることができました。また同じ問題でも、人文系と理工系の学者はまったく異なる観点を生み出すことさえ可能だと強く感じました。理系と文系を架橋しようとするEAAの試みはまさに、環境問題がますます深刻化していくなか、異なる「知」を身につける人々と冷静に会話できる場となっていました。
同じく共生というテーマに関して、私は張政遠先生の「日本の伝統文化と多民族共生」(2022)をめぐる講義からも大きな刺激を受けました。近代化の過程でいかに伝統文化を伝承するのかというのは、私がずっと抱えている問題意識でした。しかし、張先生は「多文化共生」をめざす試みが常に罠を伴うことを指摘し、いかに伝統文化を保存するのかより、むしろそもそもそれを保存する必要があるのかを考えるべきだという、より深い課題を提起しました。日本のアイヌ文化政策に対する先生の分析から、私は学術や観光、展示のみを手段として多民族共生を促してしまうと、希望に反する結果にもつながりうるとの印象深い示唆を得ました。
「和」や「共生」のほか、「書院制」という教育理念自体もまた、私がEAAから学んだ貴重な思想です。石井剛先生のおかげで、去年、私はEAAシンポジウム「哲学としての書院」の翻訳に携わりました。翻訳の作業を通して、東アジアにおける書院の伝統と現在の大学におけるリベラル・アーツ教育の関係を理解することができました。孫飛宇先生の潘光旦に関する研究によれば、潘氏が考案した大学は単なる専門家を教育すべき機構ではなく、知・情・意の3つの素質を兼ね備える完全な人間を育成するべきものでした。石井先生はEAAの講座においても、「教育の目的は人間を自由にすること、そして本当の自分を見出すこと」だとしばしば強調していました。そして大学教育には、「去蔽(真理を覆い隠すものを取り除くこと)」、つまり専門教育という「隠蔽」を取り除くことが必要だという潘氏の観点も、私にとって刺激的なものでした。
この2年間、中島隆博先生、王欽先生、柳幹康先生、星野太先生、具裕珍先生、そして事務の渡辺理恵さんなど多くの方々からも大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。EAAでの学びを糧に、今後研究者として一層精進してまいります。