2023年3月1日(水)17時から、早稲田鶴巻町にある室伏鴻アーカイブカフェShyにて、フレデリック・プイヨード氏(エクス=マルセイユ大学)によって “Headless Sovereignty. On Ko Murobushi’s Freedom”(「無頭の主権性:室伏鴻の自由について」)と題された英語講演が行われた。来日後の3回目に当たる今回のセッションは、プイヨード氏の近年の関心のひとつであるダンス研究、それも室伏鴻にかんするものだった。
南米ツアー中の2015年6月にメキシコでとつぜん客死した室伏鴻は、人知れず、膨大な蔵書、日記、制作ノート、音源等の資料を残しており、1970年代からの公演映像も含めた各種ドキュメントが最後のマネージャーをつとめた渡辺喜美子氏によって、かつて室伏鴻が南青山に開いたスペースと同名のShyに集められ、現在に至る。プイヨード氏は滞在中におもにShyで映像資料を閲覧し、1980年代の舞踏集団背火の関係者と面会するなどしており、そうした直近の新鮮な探索結果を聴衆に披露するかたちになった。具体的には、カール・シュミットによる例外状態と主権をめぐるテマティーク、室伏鴻も大いに読んでいたジョルジュ・バタイユの無頭=アセファルの思想にもとづきながら、頭部が地面に衝突することを巧みに避けながら後ろに倒れる室伏鴻のパフォーマンス、環境に応じて身体の動きを変容させつづける現前性の問題が、2010年代までの映像資料に依拠しながら分析され、空間の特異性に応じてそのたびごとに生まれ出るラディカルな自由が彼にあったのではないか、という視点が提示された。
質疑応答では、人間自身が本当に無頭になってしまうことはありえないのではないか、という観点や、政治体制におけるheadless(無頭)と太平洋戦争中の天皇制の問題、1980年代の日本におけるバタイユ受容を考慮する可能性、室伏鴻にとってのアルトーの重要性、さらにはあらゆる支配から逃れたstatelessな様態の希求があったのではないか、といった質問が矢継ぎ早に生まれた。個人的には、頭部がないということよりも、顔が隠されている覆面性や匿名性、何者でもないこと、室伏自身が日記において、故国を異郷のように感じ故郷からさえも切り離される可能性を書いていたことが強く想起された。それは突き詰めていえば孤独の問題になるだろう。
全3回のレクチャーをとおして組み尽くせないほど多くの論点が生まれたのは、プイヨード氏が現在考えていることを率直に発表してくれたおかげだと思う。夏以来、各方面の協力のおかげで、今回の貴重な機会が実現したことに感謝したい。このたびの招聘では、室伏鴻アーカイブカフェShyの渡辺喜美子氏にひとかたならぬご助力をいただいた。心から御礼申し上げます。
報告:髙山花子(EAA特任助教)
写真:齊藤颯人