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2022.03.17

EAAブックレット『一高中国人留学生と101号館の歴史』「あとがき」より

「一高プロジェクト」が始まった当初、ここまで大きなシンポジウムを開 催し、さらにそこからも展開を遂げていくことになろうとは思いもよらなかった。それが実現できたのは、一高時代の留学生関連の資料調査を進めるにあたって、さまざまな形で後押ししてくださった EAAの先生方や同僚たち、東京大学の諸先生方、さらに学外の専門の諸先生方、そして一高卒業生 とその関係者の方々のお蔭であると改めて感じている。

また、それはパンデミックという巡りあわせとも無関係ではないと思われる。「一高プロジェクト」は 2019 年春から進められていたが、2020 年の年明けから、次第に移動や対面で集まることが制限されて国際的な学術交流が 十分な形でできない状況になっていった。そうした中で、一方では、今いる建物に刻まれた日中交流の歴史や足元にある一高時代の資料へと遡るという、いうなれば垂直方向の移動へと自ずと向かったからである。それと同時に、大学や教育現場の意義の厳しい問い直しとともに、教師と生徒、生徒同士の関係性が形作る学びの環境と体験の豊かさが見直される契機にもなったこともあった。キャンパスの環境や建物が学びを形作る上で担ってきたもの、それ自体が物語る歴史の価値についても再考させられたのである。

かくして、わたしたちはかつての駒場、そしてこの特設高等科教室(現在の101号館)がいかなる場であったのか、という問いに向かって、より深く掘り下げていくことになった。ひとつは 2021 年冬から始まった「映像制作プロジェクト」であり、2022 3月に公開予定の本格的な映画『籠城』を 制作するに至った。もうひとつは、2021 6月に立ち上がった「藤木文書アーカイヴ」である。戦時下の特設高等科関係の資料、通称「藤木文書」の整理は2019 年に開始し、駒場博物館への寄贈に至った後、しばらくそのままになっていたが、むしろコロナ禍にあって、足元の資料として再び見いだされたのであった。

「藤木文書」は、1943 年に一高に設置された留学生課長という任務についた一高の日本史の教員(のちに教養学部教授)の藤木邦彦(1907-1993年) が遺したと思われる文書類である。本シンポジウムでは一高が清国留学生の受け入れを始めた清末頃から駒場へ移転した 1935 年前後くらいまでが主として扱われたが、この文書は、さらにその後の1941 年に太平洋戦争に突入し、特高科の生徒の受け入れが「大東亜共栄圏」へと拡大していき敗戦に至 るまでの留学生教育の現場を伝える資料ということになる。戦局が厳しくなるにつれ、留学生が帰省したまま休学したり、非常措置として集団疎開が実施されたりしたことも窺え、奇しくも現在の感染予防対策のために大学内に 学生がいられなくなっている状況と重なる、あるいはより際立った非常時のキャンパスの姿を示すものでもある。

ところで「藤木文書」は、東京大学駒場キャンパスの歴史学部会で長い間保管されてきたが、文書が入っていた段ボールには「並木」とマジックで書かれていた。すなわち、中身は藤木の所持品であるが、なんらかの経緯で、その後故並木頼寿先生(1948-2009年)が引き継がれた資料であったようである1。汪婉氏のご講演にもあるように、並木ゼミにはかつて汪婉氏と孫安石氏がいらっしゃった。また大里浩秋氏とも留日学生史関係の科研をご一緒されており、本シンポジウムとも大変縁が深い。汪婉氏が、ご自身の博士論 文を一字一句全て並木先生が直してくださったことは一生忘れることができない、とおっしゃったことは、たいへん深く心に残っている。このように留学生を指導した駒場の教員として、おそらく藤木もいたのであろう。藤木は なぜこの文書類を大学に置いていったのか、そして、並木先生がどのような 思いで引き継がれたのか、そして今、不思議な巡り合わせで、この文書を EAA で本格的にひも解くことになったことを、どのように受け止めるべきだろうか。このようなことを改めて考えさせられるのである。

もうひとつ、ここにどうしても記しておきたいのは、本プロジェクトにおいて、当時の一高を知る方々を中心に、多くの方にインタビューに応じていただいたことである。インタビューを始めたのは、2021 4月からであるが、すべての方々が驚くべき真摯さと情熱でもって快く応じてくださった。故藤木邦彦のご長男で、藤木文書をご寄贈くださった藤木成彦氏、一高(本科)卒業生の天野文彦氏(昭24 理乙)、中川昭一郎氏(昭 24 理乙)、渡部武氏(昭18 文乙)2 、工藤康氏(昭 26 理甲三)3 、また教養学部初年度入学生の 田仲一成氏4 、戦中戦後の特高生である林義春氏(昭 24 特理乙)、鄭廣良氏 (昭 23 特文)、大原弘氏(昭 25特文)、一高生の行きつけであった菱田屋の 四代目・菱田憲昭氏、そして一高生を紹介くださった詠帰会の谷田和夫氏に、この場を借りて心よりお礼申し上げる。一高の卒業生の方々は、既にご高齢で様々なご不便やお身体の不具合もお有りであったのではと想像するが、ご協力を惜しまずに最大限応じてくださった。特に戦時下の一高を経験された方は既に九十歳を優に超えていらっしゃったが、当時の記録を語る言葉の豊かさに驚かされるばかりであり、改めて一高の凄みを実感した。そして、戦中戦後の混乱に翻弄されながら一高生として過ごしたこと、その体験を語ること、後世に残すことへの強い思いも感じられた。また奥様をはじめ、ご家族にも大変お世話になった。一高本科生、特高生の肉声で、または 書面でも直筆によって当時のことを伺うことができたことによって、駒場の 一高資料を読む行為が、より立体的で豊かな経験となったように感じている。

現在、こうしたインタビュー内容も参考にした駒場博物館での展示「もうひとつの一高──戦時下の一高留学生課長・藤木邦彦と留学生たち」に向けて準備中である。2022 3 22 日から 6 24 日まで開催する予定であるので、ぜひ足を運んでいただけたら嬉しく思う。いま、この展示に向けて準備を進めていく中で、本プロジェクト始動時に 石井氏が投げかけた、建物に刻まれた歴史をどう受け止めるかという問いが、具体的な形をもって、わたしたちのなかに反響してきているように感じる。当時の一高が理想として掲げた「善隣」と、EAA が信念として掲げる 学問が育むことのできる「友情」の共通点と差異は何であろうか。当時の時代性の関与と誤りをも見定めた上で、互いに尊重し、希む未来というものが、いかに想像/創造できるのだろうか、と。

駒場キャンパスにおいて生き証人のように立つ「101 号館」、そして駒場に眠る留学生資料とともに、もう一度、一高が行おうとした全寮制による教養教育の意義を考えてみることが必要であろう。そうした問いを抱くと同時にまた、この三年間のプロジェクトを遂行する中で確信したのは、国家同士の関係としてではなく、人と人の学問を介した学びあいの場としてある、という点にこそ、いかなる時代においても希望があるのだ、ということである。 

ここまで、本書の編集にあたって、同僚の髙山花子さんには大変お世話になったことを、ここに記して謝意を申し上げたい。また改めて、本プロジェクトでお世話になったすべての方々に深謝申し上げる。 最後に、わたしたちが一堂に会した記録として本書を未来に残すことで、この書が新しい学問とそれが育む友情の種となることを心より願って、ここに拙筆を擱くこととする。

 

報告者:宇野瑞木(EAA特任助教)

 

2022年3月、駒場キャンパスの梅林にて

 

  1. 山口輝臣「東京大学駒場博物館所蔵「藤木文書」の来歴」『日本歴史』888 号、2022 5 月号掲載予定。
  2. 一高のア式蹴球部で張華栄と周幼海と一緒であったことを文章にも書かれている(工藤氏が運営するWeb サイト『一高玉杯会便り』第 169 号、2018 9 9 日、および 第 171 号、2018 10 2 日(http://blog.livedoor.jp/ichikou_gyokuhaikai/archives/ cat_410568.html)。また彼等に対する思いについて伺った際、「一高生にとって独善的 になりがちな傾向を是正する点では大いに役立ったと思う。教室をのぞいて、住食を共にするので、おのずからさそいあって行動し人間関係は深まった」と答えてくださったことが印象深かった。
  3. ブログ記事「工藤康氏へのインタビュー──昭和 23 年、一高最後の入学生として」(https://www.eaa.c.u-tokyo.ac.jp/blog/report-20210719-ichiko-3/)参照。
  4. ブログ記事「田仲一成先生へのインタビュー──一高から教養学部への過渡期について」(https://www.eaa.c.u-tokyo.ac.jp/blog/report-20210719-ichiko-2/)参照。