前日にひきつづき、2022年12月4日(日)14時より、本郷キャンパス山上会館2階大会議室にてEAAシンポジウム「いま、大江健三郎をめぐって」2日目が田中有紀氏(東京大学)の司会によって開かれた。発表者は菊間晴子氏(東京大学人文社会系研究科特任研究員)と岩川ありさ氏(早稲田大学)の2人であり、期せずして、両者とも、2007 年に『﨟たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』として発表されたあと、2010年の文庫化の際に『美しいアナベル・リイ』と改題された大江の「後期の仕事(レイト・ワーク)」においていささか特異な位置を占める作品を中心的に取りあげた。たんなる偶然ではなく、このテクストの読解可能性の拡がり、とりわけ「女性の声」の存在感の大きさとそれへの慎重な読み筋の必要性を物語っていたと言えるだろう。
最初の発表者である菊間氏は、「「女性神話」が暴かれる ―「アナベル・リイ」をめぐる声の重なりに注目して」と題し、国際女優サクラ・オギ・マガーシャックの生身の「声」が、1980年代以降の大江作品における、ある種の息子としての男性を守る母なる少女をはじめとする「女性神話」解体の役割を果たしていたことを指摘するものだった。菊間氏は、大江が日夏耿之介訳のポーを用いた背景を整理しつつ、性暴力の痕跡が残る無声映画「アナベル・リイ映画」に声なきままに少女として出演していたサクラさんが、老年にいたり「アーアー」という野太いアルトの声をあげる描写に着目し、そのファンタスムを食い破るような声が書かれたことに、一人の女性のあげる声を聞くという大江の新しい実践があることを示した。
つづいて岩川氏は、「文字の中に声が響く――大江健三郎の「晩年の仕事(レイト・ワーク)」と題し、「美しいアナベル・リイ」が性暴力のトラウマから回復をしてゆくサクラの物語であり、生き延びるための文学の中でも特別であることを告げ、2000年代の大江小説において、小説家の語り手の「私」が女性や子どもに語りを譲ろうとしている点を指摘した。その上で、作中に何度もあらわれるサクラの「アーアー」という声が、トラウマの消去にあらがう証言であり、かつ叫び声であることを、サクラが悲嘆と憤怒のあらわれとしての「口説き」に身体的に惹かれてゆく様子をともに明らかにした。同作の終盤にある「音のないコダマ」という表現に着目した岩川氏はさらに、書き言葉から声を受け取るだけでなく、音楽を聞き取る実践が『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』に展開していることを指摘した。
2人の発表は、1日目の発表者たちによる1960年代から1990年代にかけての大江作品についての読解を受け、さらには1週間後のシンポジウム最終日で尾崎真理子氏と工藤庸子氏が「紙と声」と題して交わした対談につながるかたちで、2000年代に大江がある種の大きな変化を遂げた契機を、「アナベル・リイ」の作品分析によって浮かびあがらせる時間を創りあげていた。菊間氏は『取り替え子(チェンジリング)』の少女像にも言及していたが、岩川氏が読者の多様化と新しい解釈の循環が生まれる意味を語っていたように、大江の他の作品たちを「声」に耳を傾けながら読み直す視座がいくつもひらかれたと言えるだろう。
その後、1日目と2日目の発表者全員が壇上にあがり、意見交換と質疑応答の時間をもった。会場からは、『性的人間』をはじめとする1960年代、1970年代初期作品にも女性が描かれていたことについての問い、大江作品にあらわれる二人組のテーマのさらなる研究可能性、天皇と固有名をめぐる問いが若手の研究者たちからあがった。シンポジウム最終日に尾崎氏が時代とともに大江作品を読む態度をしめしていたが、『晩年様式集』(2013)とともにたとえば『万延元年のフットボール』(1967)といった初期の代表作を読むことがいま可能になっている状況があらわになったひとときだったように思う。
報告:髙山花子(EAA特任助教)
写真:中田崚太郎(東京大学大学院総合文化研究科修士課程)