高田康成 会員
英文学・西洋古典学専攻
昭和25年、東京都生まれ。 国際基督教大学教養学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。British Council Scholar (Emmanuel College, Cambridge)。東北大学文学部助教授・東京大学大学院総合文化研究科教授・名古屋外国語大学現代国際学部教授を歴任。現在、東京大学名誉教授、名古屋外国語大学名誉教授、東京大学東アジア藝文書院シニア・フェロー。令和2年より日本学士院会員。
もうかれこれ30年ほど前のことです。一年間の「受け入れ留学生プログラム」を急遽設置せよという大号令が、文科省から大手の国立大学に下りました。受け入れどころか交換留学が当たり前となった今日の状況からすれば、大したことには思えませんが、これが大問題だったのです。というのは、すべて英語で行われることが必須条件とされていたのですが、当時の国立大学にはそのようなものがなかったからです。これに続く混乱の悲喜劇は端折らざるをえませんが、ひとつだけ未だにそのインパクトが冷めやらない事態が起きました。すなわち、英語によるプログラムの編成に際して、現有のスタッフを活用することのみでは立ち行かなかったことです。たった一年間のプログラムですから、授業数はたかが知れているはずなのに、そうだったのです。仕方なく、数名の新任教員と数名の非常勤講師そして同じく数名の「仏の」ヴォランティア専任教員でまかなうという、急場しのぎの有様でした。
かくなる情けない事態に陥った理由は、大きく言って二つあります。まず明らかなのは、大半の教員が英語で授業をした経験がなく、要するにこの労多くして益の少ない新規の企てに消極的であったこと—飴玉がないのですから、これは当然でもあり、この状況は現在も変わっておりません。(文化的言語ではなく、一定の普遍言語を享受する理系の場合も話は変わりません。)しかし文系の場合、なかでも英語に関係する専門教員が、英語による授業に消極的であったことは、一考に値します。英語教育はもとより英文学を筆頭として、広く英語圏の言語文化についての授業は、「受け入れ留学生」の興味を惹くものにはなりにくいという理由からです。しかし考えてみれば、どの大学であれカリキュラムは、学生の大半を占める日本人を対象として組まれているのですから、これは当然のことです。
となりますと本当の問題は、留学生の興味に合うように従来の授業を組み立てなおすことが容易でなかったところにある、と見なければなりません。そしてこの問題は、ひとり英語関連の授業に限られたものではなく、すべての知識や技能の最終受容者は日本人であるという、暗黙の了解の下に編成されてきたカリキュラム一般に妥当します。さらにいえば、明治以来の「近代化」路線において培われてきた心性の遺産となりましょう。そしてその「受容型」の特質は、幾度となく、「自発型」あるいは「発信型」にならねばならないと批判されてきたところでもあります。
もちろん従来の路線を超えようとする試みがないわけではありません。たとえば哲学は「日本哲学」というジャンルを、歴史と文学はそれぞれ「グローバル・ヒストリー」とか「世界文学」を語り始めました。しかしこれらが、「近代化」の過程で生み出された現有の知の編成とどのように関わるのか、必ずしも分明ではありません。逆に、それらが海外からの新たな波に洗われて語られていることが、気になります。
誤解があってはいけませんので申し上げますが、明治にはじまる日本の西洋学は、非西洋の国にあって比肩するもののない高さを誇っております。国際的に活躍している方々も少なくなく、日本近代の誇るべき成果として正しく認識される必要がありましょう。
しかしそのうえで、グローバルに還流しだした「international students」—たとえばミュンヘン・東京・ウィスコンシンといった渡り鳥留学—にとって魅力的で意味のある「新たな知の編成」を構想し、それを具体的な土台として、「近代化の遺産」を活かしながらも超える新たな知の編成を生み出す、これがoverdueの課題ではないでしょうか。その際、基軸が日本であることはもちろんですが、安易な「日本文化ユニーク論」の陥穽にはまらないためにも、「東アジア」という大枠が前提となりましょう。ただし米国の地域研究にいう「East Asian Studies」とは、似て非なるものとならねばなりません。なぜなら、東アジアの文化的基層である中国の伝統は、日本文化が永く身を以て関わってきたところですし、西洋文化の伝統も、近代日本が、駆け足ではありましたが、等しく身を以て取り組んできたわけですから。
とはいえ、かくなる絶好の「地・知の利」を活かさずにやって来たところを見ますと、「伝統の構造化を妨げるもの」と丸山眞男が分析した、あの「習合」という文化的無意識が実は問題なのかもしれません。
本記事は、日本学士院が発行されました『日本学士院ニュースレター第28号』(2021年10月29日)より転載したものです。