2023年10月22日(日)15時から101号館11号室にてEAAワークショップ「リアリティの現象学への貢献」が行われた。講演者は哲学を専門とするマーク・ロションツ氏(ベオグラード大学哲学社会思想研究所)である。ロションツ氏は、ベルクソンとフッサールの時間概念をめぐる博士論文を提出後、現象学を出発点としてひろく西欧哲学に取り組み、近年では意識の哲学や愛の哲学に関心をひろげ、とりわけ今日における実在論の再考を行っている。日本国内でも、新しい実在論をめぐる議論は活発であるが、問題の所在が実際のところどこにあるのか、なにが問題になっているのかは、カントにも遡るかたちで、何度でも異なる視点から考える意義があるだろう。報告者である髙山の司会のもと、コメンテイターはフランスとドイツの現象学を専門とする長坂真澄氏(早稲田大学)と西田幾多郎を中心とする日本哲学専門の張政遠氏(東京大学)がつとめた。
ロションツ氏は、カントにおける実在(reality)の定義を確認したうえで、それがどのように潜在的にあらわれうるのか、運命付けられるものなのか、そうではないのか、議論されてきた哲学史を前置きし、たとえば狂気のように現実感や事実性からは排除される事象が哲学史においては存在してきたことを指摘し、そうしたなかでどのようにたんなる幻想には還元できない神秘体験や狂気や予見できない体験をリアリティとして哲学的に議論できるのだろうかという自身の直近の関心を語った。それは、たとえば臨死体験のような生き延びの信じがたい経験をどのように個人的な体験の証言を超えるかたちで言語化し、日常経験、通常経験と異なる高められた現実(hightened reality)と呼びうる現実をめぐる哲学言語を構築できるのだろうかという問題意識に基づいていた。背景となる現象学の文脈の目配せとしてあげられたのはハンガリーの現象学者ラズロ・テンゲリの議論やマルティン・フォルティエの議論だったのだが、個別の事象に立ち返るならば、たとえば南米においてアヤワスカという薬草を服用し体感するものは幻覚ではなくリアルとして認知される、そうした日常を超える非日常的な通常的ではないリアルの感覚について、現象学を出発点としてどのように哲学をすることができるのか、ロションツ氏の議論は込み入っていたのはたしかだが、問題意識は以上のようにきわめて明瞭だったように思われる。そうしたさまざまな文化事例にもとづいて、既存の現象学——まさしく個別のリアリティを問題とする学問として構築されたものである——を出発点にして、幻覚ではなくリアルとしてさまざまな事象をどのように哲学的に議論しうるのか、切実かつ堅固な問題提起がなされた。
長坂氏からは、フッサールによる現象学の創始以前の哲学史においてreality=実在に相当する概念がどのように思考されていたのかがスピノザにも立ち返る形で丹念に確認されたうえで、次の三つの問いかけがなされた。1. ドイツ語で実在に相当する単語はWirklichkeitであるが、これはactualityとも訳しうる。翻訳の問題をどう考えているのか。 2. たとえheightened realityというものがあるのだとしてもそれは事後にしか経験できない以上、レヴィナスが述べるようなあまりにも太古のものであるがゆえに記憶し得ないものを考慮に入れる必要があるのではないか、その点をどう考えるのか。3. カントにもとづくならばすべての図式化は想像力にもとづいており、たんなる「実在」とは区別される「高められたリアリティ(heightened reality)」であってもまたそのような図式化を逃れていないのではないか。張氏からは、初期の西田幾多郎はそこまで仏教に傾倒することなく学問を構築していたことが確認され、真の意味での晩年においてこそ、日常生活や通常の精神といったテーマへの傾倒がなされていた点が指摘された。すなわち西田幾多郎はたしかに禅宗の実践に大きな影響を受けて純粋経験といった概念の創出を実践と連動するかたちで行なったものの、彼自身は基本的には形而上学者であった事実の確認である。と同時に、主客の区別のない純粋経験は、西田においては非日常の体験ではなく、決定的に日常的な通常の経験に結ばれていた点が確認された。以上を受けて、ロションツ氏からは、今回の発表言語が英語であった以上、英語のrealityという単語の含意にまちがいなく制約を受けていることや、今日においておのように自己(self)概念の刷新を体験できるのか、薬物によるトランス体験では持続時間が限定されるような点も踏まえて日常経験じたいを哲学的に再考する可能性が語られた。会場からは、意志の存在しない自己喪失の次元におけるシャーマニズムについて新たな議論を構築できるのではないかという問いかけも上がり興味深かった。
途切れることなく議論が続けられるテーマであり、質疑応答の時間が限られたことが惜しまれるが、日本語でrealityという単語、あるいはタームは、哲学の文脈では「実在」と訳されるのが通念であるいっぽう、日常でもカタカナのまま「リアリティがある」といったかたちで真正性の所在を表現するために使われるように、翻訳の問題が顕在化した点がたいへん興味深かった。わたし自身は文学研究に近年重心を置いており、議論を聞きながら思い浮かべていたのは、現象学のはじまりにおいてある意味では決定的に批判され距離を置かれた心理学と心理主義にもとづいた虚構作品=小説におけるリアリティの問題であった。ヘンリー・ジェイムズの後継者と目されるアメリカ文学の作家のひとりにイーディス・ウォートンがいるが、彼女の代表作『無垢の時代』には、まさしくリアリティをめぐって非常に興味深い一文がある。同作品においては、さまざまな経緯があり、登場人物のニューランドが積年の思いを抱えながら会わないままだったオレンスカ夫人といますぐにでも会える状況が最後に訪れる。しかしニューランドは彼女に会わない選択を取る。そのとき彼はこのように述べる。「「上がって行くより、ここにいるほうが、生き生きと感じられる」そう言う自分の声が、耳に突然聞こえた。そしてその生々しさ(リアリティ)の影が薄れてしまうのを恐れて、ベンチから動けず、時を忘れてそのまま座り続けた(”It’s more real to me here than if I went up,” he suddenly heard himself say; and the fear lest that last shadow of reality should lose its edge kept him rooted to his seat as the minutes succeeded each other.)」(岩波文庫、550頁)。ここで「生々しさ」と日本語で訳出されルビがふられているリアリティは日常生活から離れたものではなく、むしろ絶対的に人生の本質的な体験のひとつに刻まれうる静かで陳腐なものでありながら、しかし容易には他者に共有できないなにか絶対的かつ日常的な経験である。こうしたさまざまなリアリティに対して、哲学だけでなく、人文学は、学問は、いったいどのように答えることができるのだろうか。会場に集まったのは哲学研究者が大半であったが、今後も議論するための大きな課題を得る機会となった。今回の企画の実現に尽力くださったすべての方々に感謝したい。