2023年4月25日(火)10:00(JST)より、Zoom上にて、フランス文学を中心に比較文学を専門とするマイケル・クリンパー氏(ニューヨーク大学)による講演会「非主権:バタイユからアガンベンに至る「無為のならずもの」」(Nonsovereign: The Voyou Désœuvré from Bataille to Agamben”)が開かれた(要旨はこちら)。クリンパー氏ははじめに、フランス語のdésœuvrementが英語ではinoperativityやunworkingと訳される文脈を確認した上で、アガンベンのアルケーの原義的解釈と脱構成的ポテンシャル、バタイユにおける使い道のない否定性、コジェーヴにおける無為、マルクスのルンペンプロレタリアート、ブランショの否定性、ナンシーの主体をめぐる諸議論を踏まえ、アガンベンにおいていかにこの無為が存在論的な問題として重要であるのか、統治不可能性をめぐって、ホモ・サケル三部作から最新の著作に至るまでの読解を提示した。
スライドのはじまりに写真が置かれた2020年5月以降のジョージ・フロイド運動に示されるように、資本主義の終わり、無秩序、人間の絶滅といった主題が世界的に切迫するなかで、いかなる生が可能であるのか、とりわけアガンベンのバタイユ読解を精査しながら考えるクリンパー氏の問題意識は、ゆっくりとした、しかしきわめて濃密な読解をとおして、聴衆に共有されたように思う。
企画者の王欽氏からは、否定的な語彙使用が抱える二元論的な限界が指摘され、ほかにデリダのデモクラシーをめぐる議論において出来事(event)が肯定的である点が、アガンベンとの対比で問われた。わたしはたんなる偶然性とは異なるバタイユの「チャンス」概念と統治不可能性について質問をした。未来が非知と結ばれる点や、各者におけるメシア的な到来への態度の差異が振り返られ、COVID-19に際しての発言に顕著なように、アガンベンの近年の仕事における強力でありながら議論を呼ぶ思考の進め方の根底にある「ポテンシャル」概念の再考が促され、またヘーゲルを引き受けた後にいかなる「肯定性」が各論者によって展開されたのか、大きな問いを突きつけられたように思う。既存の政治体制・機構をめぐっては、めまぐるしい動きがつづいているが、どのような言葉を新しく紡ぎうるのか、議論は終わることがなく、またの機会につづくことが予感された。
報告:髙山花子(EAA特任助教)