2023年1月24日(火)、第6回駒場哲学フォーラムが開催された(駒場哲学フォーラム主催、EAAおよびUTCP共催)。会場は101号館の研修室、対面とオンラインを併用して行った。
今回は「記憶/忘却がどうして倫理的評価の対象となりうるか?」という題で法政大学非常勤講師の森永豊氏に話題提供してもらい、これについて参加者で議論した。
話題提供は今回あえて極めてシンプルなものにしている。第5回のフォーラムでは「よい忘却はありえるのか」という問いを提起して考察したが、そのなかで「そもそも記憶や忘却について善いとか悪いと言えるのはなぜか」ということが議論の的になった。この点についてざっくばらんに論じ合ってみたいという動機で、森永氏が話題提供したものである。
提題の主旨はこういうことである。倫理学は基本的に「行為」を取り上げ、その善し悪しを語る。記憶は行為の善悪を問いうる道徳的主体の構成要件ではあっても、それ自体について善し悪しを言うことはできないように思われる。ところが私たちは日常的に忘却を責めたりする。それはいったい何に基づき、どんな判断をしていることになるのか。
森永氏からは二つの事例が提示され、そこからはオープンに議論が交わされた。事例のひとつは「子どもの誕生日を忘れていた夫に対して、妻が『許せない』と言う」というものであり(妻と夫が逆であっても構わない)、もうひとつは「ある人が『おまえ、自分のしたことを忘れたのか』と言い、相手が『思い出せない』と答えるのに『おまえ、とんでもないやつだな』と返す」といった例である。一つ目の事例では親や配偶者としての徳の欠如が問題とされているように思われ、また二つ目の事例では個人の責任感が問われているように思われる。果たしてこのような理解でよいのか、より洗練された説明はどのように与えられるか、別の事例ではどうか、そして包括的な理解はどのように可能かといったことが問題となる。
ここでの議論は基本的に、私たちがもっている直観を概念的に捉え直すというものになる。大事なことを忘れるのは道徳的に悪いこととされる、というのは常識の範疇に属することだが、あらためて考えてみると、私たちがなにかを「悪い」と言うときに何を意味しているのか、また記憶は私たちの生活においてどんな役割を果たしているのかということが捉え直される。
議論は事例をさらにいくつも挙げながら為された。例えば親しげに話しかけてきた人に「あなた誰でしたっけ」と尋ねることの「悪さ」とはどういうものか。また教師が授業の予定を忘れてすっぽかすことはどのような意味で悪いと言えるのか。さらに、今年度UTCPの企画で水俣を訪れた際に相思社の方が語ってくれたエピソードも深く思考を促すものがある。「ここは苦しい思いを背負ってきた方が、安心して忘れられるようにする場所なのかもしれない」とその人は語ってくださったのだった(そのときの報告はこちら:https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2022/08/post-997/)。
議論の中で概ね共有された結論は、記憶の倫理性が「役割」や「間柄」における期待に基づくものだろうということであった。提題における一つ目の事例はそれがはっきりしている。また二つ目のような事例に関しても、なんらか自他の間で大きな出来事が生じたならば(それは一方から他方に対する害であるかもしれない)、それを記憶することがこの二者の間柄を引き受けることになると言えるだろう。私たちはそれぞれ役割に沿った期待をかけあっており、それを適切に引き受けようとしないあり方が「悪い」と言われる。忘却はそうした役割への背反を構成するのである。
ただし役割に基づく期待は規範となるために「二階の期待」を必要とする。期待のうちには無茶なものもあるだろう。ある期待が、それ自体別の人々からも期待されるものであるとき、その期待は規範としての力を持つのだと言える。このことを踏まえるなら、例えば「死者の期待」について語ることもできる。死者はもう現実に期待を働かせえないとしても、その死者の期待を社会の構成員たちが期待するならば、「私の命日を忘れないでほしい」といった(仮想的な)期待は規範として力を持ちうるのだと考えられる。さらに、より規模の大きな問題、例えば国際的な場面にもこの議論は敷衍できるだろう。戦争加害国に対して「記憶」の責任が語られるとき、そこではその国がいったいどのような主体であろうとしているのか、それは国際的な期待に適うものであるのかということが問題にされているのだと言える。
こうした基本的な見取り図のもとで、様々な論点を扱うことができる。ひとつには価値観の変化が記憶の倫理性にとって根本的な条件を成すということが挙げられる。国家の記憶に関しても、かつては「勝てば官軍」に似た規範が優位であったろう。また死者の記憶に関しても仏教には三十三回忌を区切りとする「弔い上げ」の仕組みがあり、そこでは記憶しつづけるというより適切に忘れることが文化的制度に組み込まれている。こうした規範のもとで、記憶の倫理性は理解されるのである。
この「弔い上げ」の話題からは、人間の有限性を前提にした記憶の倫理とはどのようなものかという議論も展開された。私たちはすべてを記憶できるわけではないし、記憶すべしと言われる私たち自身がまた過ぎ去ってゆく。これに対して、モニュメントや記念祭といった仕方で記憶を「外部化」するというのはひとつのやり方だろう。そこにはたしかに、ただ知識を伝達するというのとは異なる、私たち自身をなんらかの役割・間柄へと繫ぎ留める働きがあるように思われる。しかし記憶の同一性とはどのように考えられるべきものなのかといった問題はさらに残される。
議論は多岐にわたったため到底網羅できないが、概ね以上のような議論が交わされた。
今回のフォーラムを経ていくつか思うことがある。議論の内容に関することから簡潔に記しておきたい。
今回直接論じることはなかったが、議論の随所で「赦し」が本質的な問題であることが見て取られた。ここで赦しというのは、道徳的に「悪い」と判断されたものを許容するということではない。むしろ赦しにはそれ自体忘却と似たところがある。記憶や忘却についてどのような意味で倫理的評価が可能かという問いは、倫理的評価をしうる者自身の、あるいは倫理的評価を気にかける人間同士の有限性にも関わってくると思われる。
また今回はあくまで「記憶や忘却について道徳的な善悪を問える(倫理的評価ができる)のはどういう意味においてか」を議論したが、記憶と忘却は直ちに道徳的な善悪を超えた問題に接続しており、それは倫理を語ることそれ自体の意味を問い返すように思われる。例えば認知症の家族が大事な出来事や人を「忘れる」ことに対して感じる戸惑いや悲しみ、怒りや空しさといったものは、倫理的評価なるものの不確かさと無関係ではあるまい。「悪い」と言って済まされるならば簡単だが(それも本当は簡単ではないだろうが)、もはやそのような問責ができないという状況である。かといってそのような評価を完全に手放す――つまりまったく期待をかけない――こともできない。「倫理的評価」をめぐるメタ倫理的な問いはこのように身を苛むものでありうる。そしてこのような苦悩は、生身の人間同士であるかぎり、どんな場面にもなにほどかは生じているはずである。
今回はかなりシンプルな提題からざっくばらんに議論を交わすという形式を取ったが、これまでのフォーラムではいわゆる研究発表に準ずる形で、発表者が〈問い‐引用・参照‐考察‐結論‐さらなる問い〉といった構成からなる提題をしていた。それを受けての議論は基本的に、発表に対する質疑応答という形式を取った。これはこれで有意義なのだが、どこか提題者に問題の始末を任せて議論するような恰好になってしまう。なにかもう少し気楽で参加者が尻込みしない、それでいて問題の真剣さが十分に味わえるような議論の形がないものだろうかと考えていたところであった。そういう意味で今回のフォーラムは、ひとつ実現したかった議論の場となったように思う。とはいえ振り返ってみると、今回論じられた多くの論点が実は前回の話題提供のうちに萌芽的に含まれていたことにも気づく。それぞれの関心を持ち寄るという側面と、その場で共に考えるという側面とをどううまく組み合わせることができるのか。フォーラムを続けていくうちにその形が見えてくればと思っている。
報告:宮田晃碩(UTCP上廣共生哲学講座 特任研究員)