2022年12月18日(日)、第5回駒場哲学フォーラムが開催された(駒場哲学フォーラム主催、EAAおよびUTCP共催)。会場は101号館のEAAセミナー室、対面とオンラインを併用して行った。
今回は教養学部教養学科現代思想コースの村上聖氏に話題提供をしてもらい、それを踏まえて議論を交わした。話題提供の題は「忘却と倫理――よい忘却はありえるのか?」である。ポール・リクールは主著のひとつ『記憶・歴史・忘却』の最後に「幸福な忘却」についての意味深な記述を残している。記憶することあるいは忘却しないことの倫理を語ってきたと見えるリクールの論考において、これは何を示唆しているのか。そこから着想されたのが「よい忘却はありえるのか」という問いであった。
村上氏による話題提供ではこの問いについて考えるため、まずリクールの文脈で記憶と忘却がどうして倫理の問題となるのかが説明された。一言でいえばそれは、記憶が主体の同一性を形作るからである。そしてこの同一性の生成はひとりで恣意的に為されるものではなく、それ自体が他者からの呼びかけに応ずるという意義を持つからである。
次に「よい忘却」について村上氏自身の考えるところが示された。「他者を記憶せよ、忘るるなかれ」という要求はたしかに否応なく迫ってくるものだろう。それでも私たちは生身の人間として、忘却を免れない。この点にどう折り合いをつければよいのか。これが「よい忘却はありえるのか」という問いの意味するところである。この問いに対して村上氏は「喪」の作業を範例として取り上げる。ここでの「喪」には歴史記述も含まれる。そこには「記憶」と「忘却」とが排他的な現象としてではなく、むしろ表裏一体の現象として生じているのではないかという示唆が、ひとまずの答えとして示された。
こうした考察を踏まえて、村上氏からはさらにいくつかの問いが提示された。「喪」を範例としたときに考えていたのは過去の他者についての記憶/忘却であるが、現在の他者との関係はどうなるのか。忘れるなと呼びかける他者の現われ(表象)にはどのような可能性があるか。個人的な記憶/忘却と集団的な記憶/忘却はどのように関わるのか、といった問いである。
以上のような話題提供を受け、参加者の間でいくつかの点について議論を交わした。
ひとつはそもそも提題のきっかけとなったリクールの「幸福な忘却」への言及が、どのような意味で謎めいているのかという点である。例えば自らの悪事を忘れることが幸福であるというのは、特に不思議のない事実であろう。都合の悪いことを忘れるのは非倫理的かもしれないが、それは当人の幸福とは矛盾しないように思われる。しかしリクールはおそらくここで、幸福を快楽といった意味ではなく、倫理的な善さを含意する意味で語っているのだろう。そうだとすればたしかに「幸福な忘却」とはどういうものであるのか、ここには解き明かすべき示唆があると考えられる。
また基本的な問題として、どうして記憶や忘却が倫理的な評価の対象になるのかということが問われた。忘却や記憶は、それ自体は行為でないように思われる。しかし少なくとも規範倫理学が典型的に問題とするのは行為である。とすれば記憶や忘却の倫理について語る立場は、そのような典型的な倫理学ではないことになる。また別の観点からこの問いを敷衍するなら、記憶や忘却はそれに基づく行為へと至ってはじめて倫理的評価の対象になるのではないかとも考えられる。心中に思い起こすことそれ自体は善いことでも悪いことでもないのではないか。
「どうして記憶や忘却が倫理の問題になるのか」というこの問いに対する答えを村上氏の提題から再構成するならば、それは記憶や忘却がそれ自体他者への応答という意義を持つから、ということになるだろう。その「他者への応答」は行為なのかそうでないのかということが再び問題となりうるが、おそらくこれはそのような区別の手前で、行為する主体の生成そのものに関わっている。そうした次元に関して倫理を語るとはどういうことか、ということが結局は問題となるはずである。具体的な行為に至らずとも、忘れないあるいは忘れられないということの持つ重みのようなものがあるだろうといった話も出たが、これもおそらくはそうした主体の生成に関わるものであろう。
そうした点に深入りする前に考えられることとして、「忘れない」ことは実は行為の問題ではないのかということも問われた。忘れないように書き留めたりなんらかの振る舞いを習慣化したりすることはできるし、逆になにかを忘れようと努めることもありうる。ひょっとするとこうした問題は村上氏の参照した「喪」に深く関わっているかもしれない。
また、そもそもどのようなものを「記憶」と呼ぶのかも問題である。例えば教科書に書かれた歴史的な事件を知っていることは「記憶」と呼べるのか、呼べるとすればそれはどういう意味においてか。集団的な記憶について考えようと思えばこうした問いを避けることはできない、ということも指摘された。
今回は口頭での議論がおもに問題の基本的なところを談ずるもので、村上氏の提示した社会的な場面への問いをじっくり語り合うには至らなかった。ただ同時に確認されたのは、どうして記憶や忘却が倫理の問題になるのかというその点が、それ自体で検討すべき問題だろうということである。これまでのフォーラムは基本的に一回完結で、ゆるやかな関心の継続性はあれど毎回別個に発表者がテーマを決めていたのだが、今回から次回にかけては引き続き「記憶と倫理」を扱うこととなった。「そもそも何故記憶/忘却は倫理の問題になるのか」というのが、次回のテーマである。
いま報告を書くために振り返って、話題提供のなかに極めて豊かな問題提起が含まれていたことに気づかされる。その問題の射程に対して、私たちが口頭で交わした議論はどこか及ばぬところがあるような印象を抱くのも事実である。これは(勝手に代表するなら)私たちの議論の生硬さを示すのかもしれないが、むしろ「共に考える」ことの特質を示しているのかもしれない。個人的な感覚を言えば、ひとりでテクストと向き合いながら考えた方が、ひとつの包括的な視座のもとで物事を先の方まで考えることができる。しかしその思考の跡をまた別の人が辿って理解するには時間がかかり、また様々なひっかかりを越えねばならない。ひとりひとりの歩み方は異なるからである。口頭での議論はこのひっかかりの形を矯めつ眇めつして明らかにするようなものになる。これはもとの思考の成果を前進させるものとはなりがたい。この点に私は「どこか及ばぬところ」を感じたのだった。とはいえ複数人での議論は、当初かろうじて辿られた小径を整えて歩きやすくし、あるいは所々に別の道への分岐を見出すことになる。こうして一人歩んだ道をなお多くの人の行き交う道にすることが、議論するということであり「共に考える」ということであろう。そうだとすれば議論の意義はその場に限定して見るべきではなく、そこからどのような広がりが生まれたのかという点に見るべきものだろう。それは時間をかけて現れてくるものに違いない。様々な議論の形を試みられればと思っている。
報告:宮田晃碩(UTCP上廣共生哲学講座 特任研究員)