2022年11月4日(木)、駒場哲学フォーラム主催、EAAおよびUTCP共催で第4回駒場哲学フォーラムが開催された。会場は101号館のEAAセミナー室で、対面とオンラインを併用して行った。
今回は教養学部文科Ⅲ類の鎌田征憲氏から「芸術の中の戦争――「いかに」作り、展示し、見るか。」というテーマで話題提供していただいたうえで、参加者のあいだで議論を交わした。以下、要点を記して報告としたい。
話題提供の主旨は、標題にある通り、戦争がどのように芸術作品において表現され、展示されうるか、私たちはそれをどう見ることができるかというものである。発表における順序とは異なるが、鎌田氏自身の着想を辿るようにその内容を紹介するならば、それは以下のようなものである。
第一に鎌田氏の問題提起は、9月にゲルハルト・リヒター展(東京国立近代美術館、6月7日~10月2日)を訪れた際の違和感に端を発している。その違和感とは、リヒター自身の言う「困窮、絶望、無力」が表現されているはずの作品に対して、鑑賞の空間がそれと向き合うには適していないということであった。その空間はあまりに日常と地続きであり、騒々しいものであった。ではどのような空間であればよかったのか、そもそも戦争を芸術によって表現するとは、そしてそれを鑑賞するとはどういうことなのか。誠実な鑑賞とはどのようなものであり、それはどのように可能なのか。こうした問いについて、いくつかの制作や実践、批評を参照しながら考えるというのが今回の主旨であった。
制作に関しては例えば、アーティスト集団Chim↑Pomが広島市の上空に「ピカッ」という文字を描いたというパフォーマンスと、現代美術家の蔡國強による文字通り「黒い花火」のパフォーマンスとが対比される。これについて示唆的なのは、社会的に批判を浴びたChim↑Pomのパフォーマンスが実のところ、「ヒロシマ」そのものではなく戦後を生きる私たちのリアリティを表象するものであり、その点で効果的だったのではないかという批評(椹木野衣)である。
一方で、文学等の芸術作品がそもそも極限状態を利用し、場合によっては美化、肯定しかねないという批判もある(アドルノ)。ここでは「表現」という行為が問い直されねばならない。だがもし表現が、必ずしも表現者の意のままになるものではなく、むしろ表現者の意図や能力を超えて見舞う力の証であり、それが作品に傷痕のように刻まれているのだとすれば、そこには何らか、極限状態を美化したり肯定したりするのとは別の仕方で、それを形にするという可能性があるのかもしれない(吉増剛造による原民喜「燃エガラ」への評)。
また鑑賞については、ちょうど最近開催されていた李禹煥の回顧展(国立新美術館、8月10日~11月7日)が示唆的である。そもそも李自身が「場が主人公である」という考えのもとで、まさにそのような場を創造すべく制作しているように、そこでは鑑賞の空間そのものが、作品を成立させるものとされている。戦争等の表象に関して、そのような場を作ることは可能なのか。
体験を重視するという意味では、戦意高揚を目的とした戦時中の紙芝居を取り上げる、詩人のアーサー・ビナードのコメントが興味深い。「反省」といった言葉のもとに過去を客体として見るのではなく、むしろ当時の人々がそれに飲み込まれていたように、過去を追体験すること。そこに現在を見つめ直すきっかけがあるのではないか。
以上が話題提供の概要である。これに対して議論は概ね、二つの方向で展開した。ひとつは戦争とその表現および追体験というテーマで、いったいどのような手段があり、そこにどのような問題ないし可能性があるのかを検討するという方向、もうひとつは鎌田氏が抱く「誠実さ」への希求の輪郭を明らかにするという方向である。前者について言えば、「なぜ芸術なのか」ということも問題となる。後者について補足するなら、今回の話題提供は基本的に「戦争という事実を、なんらかの作品を媒介とするとき、いかに真剣に受け止めることができるか」という動機に貫かれたものと言えるが、例えば戦争といってもフィクションの戦争であればどうか、あるいは戦争以外の災禍であればどうかなど、その思いのありかを探るための問いがいろいろ考えられるのである。
多岐にわたった議論を一言にまとめることはできないが、おそらく根本的に問題となっていたのは、次のようなことであった。即ち、結局のところ私たちが私たちの現実において作品と向き合うほかない――そこには経済的、技術的な条件も関わる――のだとすれば、過去や他者(とりわけ戦争には「敵」がいるものである)はその現実にどう関わるのか、作品はそこでどのような力を持つのかということである。私たちは過去を恣意的に理解することもできそうなものだが、しかし同時に、そこに抵抗も覚える。その力の強さと弱さをめぐって、議論を交わしていたのだと思う。
美術館で感じた違和感を根本的な問いへと接続した発表を端緒に、今回は議論が繰り広げられた。こうした議論も含めて、芸術の鑑賞というものは考えられるだろう。そこで「哲学」はどのような営みでありうるのか、既存の「批評」と何が異なるのかといったことが、いまは気にかかる。両者は当然、截然と区別されるものではないが、批評がつねに作品に立ち返るべきものであるとすれば、哲学はむしろ作品が喚起した問いに自立性を認め、そこに息を吹き込んでゆく営みであると言えるかもしれない。そしてそれは、鑑賞体験を自分たちのものとして、その後に続いてゆく日常に向き直るための、したたかで血の通った実践であろうと思う。
報告:宮田晃碩(UTCP上廣共生哲学講座 特任研究員)