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2022.09.30

【報告】第2回駒場哲学フォーラム

2022年9月5日(月)、駒場哲学フォーラム主催、EAAおよびUTCP(共生のための国際哲学研究センター)共催で第2回駒場哲学フォーラムが開催された。当日は18号館のコラボレーションルーム1およびオンラインのハイブリッドで議論を行った。
今回は本報告の執筆者である、UTCP特任研究員の宮田晃碩が「技術と不確実性」というテーマで話題提供を行った。今日、科学技術の発展は私たちの社会を豊かにするばかりでなく、むしろますますリスクに満ちた、不確実なものにしているとはしばしば言われることである。例えば原子力発電は許容量を超える放射能への暴露というリスクをもたらし、遺伝子操作は不可測の病害や健康被害といったリスクをもたらすとされる。これらは基本的に恐れるべきリスクであり、コントロールすべきものである。しかし一般に「不確実性」には、創造的に働き、より人間の自由を増すようなものもあるのではないか。発電技術や遺伝子操作技術も、そうした側面をひょっとすると持つかもしれない。今回の話題提供の主旨は、「不確実性」を考え直すことによって、技術に対する新たな見方を模索する、というものであった。
とはいえ、この話題提供は未だまとまった論考になりきらない、思考の途上にあるものの開陳であった。この思考の発端となったのは、「技術者倫理」の授業において、制御的・管理的な考え方が主導的であることに引っ掛かりを覚えたということである。「技術者倫理」とは2000年代以降、JABEE(日本技術者教育認定機構)の認定基準に対応して大学の工学部や工業系の高専を中心に開講されている授業の名称である。それは「技術が社会や自然に及ぼす影響や効果、及び技術者の社会に対する貢献と責任に関する理解」を養うものとされるが、具体的には過去の事故事例やその原因、事故を防ぐための方策や考え方を学ぶものとなっている。一方で私としては、多くの課題を技術者の責任として押し付けるより、様々な立場の人々が課題や楽しみに向き合うとき、技術者はどういう働きを担いうるのか、といった視点で「技術者倫理」を考えたくなる。それが教えうるものならば、内容はむしろ、社会そのもの(それは確かに科学技術と切り離せない)の不確実性を踏まえたうえで、それにどう向き合い対処するか、という方向性のものになるだろう。そうした漠然とした考えを哲学的な議論のレベルに持っていけるだろうか、というのがこの話題提供の動機であった。
話題提供の骨子は、技術の介在が「倫理」の問題に何をもたらすのかという論点の確認、技術者倫理の授業でしばしば取り上げられる「逸脱の標準化(normalization of deviance)」という概念の紹介、そしてアーレントが政治的領域における「行為」に認めている不確実性(予測のつかなさ:unpredictability)の積極的な意義の検討、というトピックからなる。これに対して、非常に活発な議論とクリティカルな指摘がなされた。その論点は例えば、単なるエクスキューズに陥るのでない「倫理」とは何か、技術が不確実性をもたらすと言うがそれは技術に限らないのではないか、もし技術に固有な不確実性があるとすればそれはどのようなものか、「技術にまつわる倫理」と「技術者の倫理」とはどういう関係にあるのか、アーレントが人間の行為に認める「不可測性」は、技術がもたらすという「不確実性」と次元が異なるのではないか、それにもかかわらずその相互参照に意味があるとすればそれはどういうものか、といったことに及んだ。
こうした議論の中で、問題が哲学的な議論のレベルで分節化されていったばかりでなく、話題提供をした私自身が、自分の考えたかったことをより明確に見えるようになった感覚がある。私の考えたかったのは、おそらくこういうことである。「技術者倫理」という枠組みのなかでは、技術開発がどのようなプロセスで為されるべきか、作られた技術がいかに用いられるべきか、そこで技術者はいかなる規範に従うべきかということが問題とされる。そこでは、技術そのものの善し悪しが問題とされることはない。それは単に考察の外に置かれているというより、「適切に管理する」という要請によって、問う必要のないこととされている。しかし実際のところ、私たちの生を毀損するような仕方で社会を変える技術と、そうではなくて私たちの生を(何らかの意味で)より私たちらしいものにする技術とがあるのではないか。もちろん、その基準はあらかじめ一義的に定めうるものではない。というのも、技術は様々に絡み合って、そうした一義的な基準をも揺るがしうるからである。技術は何らかの目的に役立つばかりのものではなく、むしろ新たな目的を創出することさえする。しかしそうだとすれば、その不定性を私たちはどのように受けとめうるのか、私たち自身はどのように不確実性を生きているのかという観点から、技術を問うことができるのではないか。このようにして私は要するに、善い技術とは何か、それは私たちが不確実性を喜ばしいものとして享受できるようにする技術のことなのではないか、といったことを問いとして立てたかったのである。
よく準備しての発表ではなかったが、こうして「考えたいことがはっきりする」という機会はなかなか得られるものではないとも思う。そのためにはやはり、概念の正確さを問い質し、問題の論理的な繋がりを検討する議論が必要であった。話題提供者としてはありがたいかぎりの会であったが、参加者の皆さまにとっても得るものがあればと願っている。今後も引き続き、考えるべき問題を明らかにし、共に考え続ける場としてこのフォーラムが機能すれば幸いである。

報告:宮田晃碩(UTCP上廣共生哲学講座 特任研究員)