2025年1月16日夜、国際開発学会「開発論の系譜」研究部会とEAA「開発と文学」研究会の共催による対面のセミナーが開催された。松本悟氏(法政大学)の司会のもと、大山貴稔氏(九州工業大学)、キム・ソヤン氏(韓国ソガン大学)、松原直輝氏(東京大学)、汪牧耘氏(東京大学)という4名の登壇者が開発論の再編成に向けた問題提起を行い、来場の研究者、市民団体、官庁関係者、出版業界の関係者や学生など多様な参加者を交えた活発な議論が展開された。本セミナーは、開発をめぐる「忘れられた」あるいは「意識化されていない」言説(discourse)を論じる手がかりを、現場の語りや具体的な事例研究から探り、これからの開発論をめぐる研究・討議の内容・方法を明確化にすることを目的としている。以下は、各報告と全体討論の概要となる。
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忘れられたディスコースを求めて——『開発論の系譜』中間報告
大山貴稔氏(九州工業大学)は、国際開発学会「開発論の系譜」の中間報告として、部会設立の経緯と1年半の活動を振り返りつつ、開発論再編の可能性を自らの問題関心を踏まえながら提示した。
部会設立の直接的な背景となったのは、開発論をめぐる近年の動向にある。その例として、国際協力機構(JICA)による「日本の開発協力史を問い直す」プロジェクトや、JICAチェアなどの動きを取り上げることができる。特に後者は北岡伸一JICA理事長(当時)のリーダーシップのもと、明治維新150周年を機に日本の近代化経験を対外発信しようとする意図を持っていた。自衛隊の海外派遣の問題や外交の思想の問題を研究していた大山氏の研究によると、1990年代以降長らく日本の国家戦略の錬成に関わってきた北岡氏にとって、政治家にならずとも自らの手で国家戦略を具現化しうる役職がJICA理事長であり、その流れの中で開発論に注がれる現代的なまなざしが方向づけられている可能性がありそうだ。
本研究部会を立ち上げるに至ったのは、上記の流れのなかで光が当てられたなかった開発論への関心である。2023年11月から開催されてきた計6回の研究会では、より多角的な視点から開発協力の歴史を捉え直すことを目指してきた(参考資料はこちら)。
これまでの部会活動を通して、開発論の再編成に向けて3つの手がかりが得られたという。第一は、市民社会をはじめとする運動のネットワークに関わる開発経験者が語り継ぐ開発論である。例えば、学生運動の経験者が開発援助に関わるようになった経緯や、日本国際学生協会(ISA)の活動など、当時の社会運動と開発実践の接点が明らかにされてきた。興味深い気づきとして語られたのは、留学経験者のネットワークの役割である。1950-60年代に米国留学を経験した世代が開発学会の初期の組織基盤を形成し、1980年代にはコーネル大学の「開発の会」などを通じて次世代の研究者が育っていった様子も見えてきた。第三に、知的ネットワークの形成過程にも注目していた。インターネットもない時代に、断片的な情報の中で共通の問題関心や読書体験を持つ人々が緩やかにつながっていく様子が確認された。例えば1990年代の佐藤寛氏が主宰する開発人類学勉強会で結ばれた人的つながりは、2000年代に入って国際開発学会(JASID)を支える重要な柱の一つとなっていった。いずれの角度からも再確認されたのは、文書資料には表れにくい実践知や経験知の重要性である。
このように、これまでの研究部会の活動を通して開発協力をめぐる多様な経験や実践を掘り起こすことで、現在の、言ってみれば外務省・JICA中心の開発援助論で見落とされてきた視点を再発見する重要性を指摘している。人文社会系の研究者にとって馴染みの深い知識社会学的なアプローチを用いながら、開発という事象の重層性に迫ろうとする姿勢が印象的であった。
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メコンの眼差し—— 地政学的変貌と開発論の波紋
キムソヤン氏(韓国ソガン大学)は、メコン地域の開発動態を事例に、開発援助をめぐる地政学的な変容を分析した。そのなかで、「忘れられる」より以前に、そもそも「聞かれていない言説」と、ナショナリズムを装いながら「前景化してしまった言説」の存在を、具体例を踏まえて話題提供した。
まず興味深かったのは、日本の援助関係者の存在感が中国や韓国と比べて薄れているという指摘である。「現場主義」のイメージと切り離れる日本の「見られ方」——東アフリカの国マラウイにおける「JICAルーム」は冷房が効く場所として好まれているという表象、「車から降りなかった」というような現地関係者による日本人への評価——は、どのような「当たり前な日本人像」を新たに描いているのか。日本的印象はいまだ有力な言説として成り立っていないものの、援助関係者をめぐる認識の変化を象徴的に示している。
日本の見られ方を捉え直すには、より大きなスケール感をもって考える必要性がある。上位的な問題として、キム氏は「グローバルサウス」という概念の現実を継続的に観察する重要性を指摘した。一例として挙げられるのは、今日、メコンをめぐる開発問題の中身はかつてと大きく異なっていることである。ドナー側を見れば、日本との長期的な関係を持つ関係者から、今日の欧米も含めて援助の特徴や変化についての見解が得られている。表向きは連帯や共同発展が謳われる一方で、実際には国家間の競争や対立が深まっており、一国の繁栄追求が近隣国の安全や発展を損なう可能性も出てきている。「グローバルサウス」においても、ASEANをはじめとし、域内協力と国益の相克に苦慮する様子が垣間見られたという。開発・政治・経済の関係性の膠着化は、それに介入し変革を求める隙間を狭めている。
さらに、対策を練り上げる前提とも言える「影響」そのものはどう測るか。一例として注目されたのは、中国が推進するカンボジアのプノンペン=シアヌークビル運河プロジェクト(17億ドル規模)である。このプロジェクトの特徴として、以下の点が指摘された。第一に、
キム氏の報告は、開発援助をめぐる地域の力学が、従来の援助国・被援助国という枠組みをはるかに超えて複雑化している実態を浮き彫りにした。気候変動や地政学的緊張の高まりにより、地域協力の困難さが増している中、開発論の実態は国家にプライオリティを置いてきた分析枠組みの刷新を迫られているといえよう。
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制度発展の内発史観と外発史観——青年海外協力隊の行政システムの分析
松原直輝氏(東京大学)は、青年海外協力隊の形成過程を説明するためのディスコースを、内発的史観と外発的史観に分けて、日本の国際開発に関わる重要なアクターの表象を描く視点・方法・資料の重層的な関係性を試論した。1965年の発足時から、青年海外協力隊をめぐっては二つの異なる理解が並存していた。一つは「日本版ピースコ」として外発的に捉える見方であり、もう一つは日本の青年団体活動の延長として内発的に捉える見方である。
外務省側の視点に注目すると、当時のピースコーへの関心の高さが窺える。外交文書からは、イギリスの対応やピースコー隊員の受入国での反応など、詳細な情報収集が行われていたことがわかる。特に途上国での若者の活動に対する拒否反応への懸念から、外務省は「青年の技術者」という位置づけを重視し、技術協力の枠組みの中に協力隊を位置づけようとした。
一方、青年団体側の動きとして、寒河江善秋(1920-1977)と末次一郎(1922-2001)という二人の人物の役割が重要である。寒河江善秋は満州開拓団の経験を持ち、戦後は産業開発青年隊などの活動を展開。末次も満州からの引き揚げ者の団体を中心に活動を展開していた。両者に共通するのは、「日本政府」に対する一定の抵抗意識と、それに依存しない青年グループの形成という志向性である。それに対して、青年と「国家」との絆は異なる対象として重要視されてきた。
ただし、「内/外」の分け方が可能とはいえ、実際の制度運営では、外務省だけでは制度が確立できず、青年団体の協力を必要とした。しかし1970年代に入ると青年団体の組織力が低下し、新たな実施体制が模索されることになる。ここで注目されるのが、移住事業との連携であるJEMISと協力隊事務局の統合により、移住事業で培われた地方ネットワークが協力隊の募集にも活用されるようになっていった。
さらに興味深いのは、こうした複数の力学で編成された協力隊をめぐる歴史叙述の変遷である。1968年から2000年代にかけての4冊の記念誌を分析すると、外発的理解と内発的理解のバランスが時期により異なることがわかる。特に近年の『持続する情熱』では、青年団体的な理解が強調される傾向にある。これには末次一郎の弟子筋が地方に広がり、その歴史観が再生産されているという背景もあるという。
このように青年海外協力隊をめぐる開発論は、開発協力における制度と政策の歴史を考える上で重要な示唆を含んでいる。アクター間の対立と妥協、新しいアクターの参入・消失による記述の変容、そして歴史叙述をめぐる解釈の多様化など、複層的な展開を見せているのである。それと同時に、歴史に関する解釈、その解釈を解釈する今日の私たちもまたその力学のなかで生きていることを自覚する必要性は、質疑で問題提起されている。
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フィルターとしての「日本開発学」—— ディスコースを受け止める場の課題
汪牧耘氏は、多様な経験・言説を知識として定着・再生産させる装置として、日本の「開発学」に着目した。開発学自体は第二次世界大戦後の国際秩序を背景に始まり、当初の援助研究から、グローバルイシュー、開発論の批判的検討、政治経済学的アプローチへと範囲を拡大してきた。こうした開発学は、どのように日本で生まれ、それが経験・言説の「フィルター」としてどのように特定の声を増幅し、他の声を抑制しうるかを把握することは、開発論の系譜の再編成、さらにいえば革新的な知識生産を展望する上で重要である。
報告では、日本の開発学における学術誌の分析、具体的には『開発学研究』(旧『拓殖学研究』)、『国際協力研究』、『国際開発研究』という三誌を対象に、その変遷を詳細に検討している。『開発学研究』は、1990年に『拓殖学研究』(1960)から名称を変更した雑誌である。戦前の植民地研究との関係をどう再定位するかという課題を抱えながら、新しい国際協力の形を模索してきた。興味深いのは、この雑誌に開発論や多元主義を吸収した論考が掲載されている点である。例えば、エスコバルなどポスト開発論の影響を受けた研究者も投稿しており、必ずしも単純な継承関係ではない複雑な展開を見せている。
『国際協力研究』は、1985年から2008年まで発行されたJICAの機関誌である。1980-90年代、日本の援助が国際的な注目を集めていた時期に、実務家の知見を共有する場として期待されていた。特徴的なのは、巻頭言に様々な立場の論者が登場する点である。文化人類学者や比較文明論の研究者など、「日本」に対して異なる視座を持つ論者が招かれ、活発でありながら互いに触れ合わない議論が展開された。
『国際開発研究』はJASIDの学会誌である。1990年代初頭の創刊時に、本誌は官僚・実務家・研究者の対話の場として構想された。しかし査読体制の整備により次第に学術的な性格を強め、実務家の経験や知見を共有する場としての性格が薄れていく。特に注目されるのは、投稿者の変化である。当初は省庁による委託研究の成果が多かったが、次第に科研費による研究成果が中心となっていく。現在の課題として、以下の点が指摘された。第一に、投稿論文の減少と特集号への依存である。これは日本語論文の評価をめぐる問題とも関連している。第二に、開発学の専門性の問題である。開発研究者の多くが「アルバイト」的に関わっている現状で、どのように研究の深化を図るかという課題がある。第三に、実務との関係である。学術的な厳密さを求めることで、かえって実務の知見を取り込みにくくなるというジレンマがある。このように開発学は、研究・実務・批判をめぐる緊張関係があるものの、強い求心力がない状態のなかで——さらにいえば人的つながりのなかで緩やかに維持されてきた。開発経験を受け止める場として、日本の開発学の特性を理解することは、今いっそう求められている。
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開発論の系譜を問い直す——総合討論から見えた課題と展望
総合討論では、開発援助と投資の境界、援助機関の組織変容、実務と研究の関係など、多様な論点が提起された。まずは、「開発」というテーマの射程について。開発援助の概念は大きく変容している。援助と投資の境界が曖昧化し、気候変動対策などの新たな課題への対応で従来の枠組みの中身も変容し続けてきた。無視できないのは、民間セクターの役割の拡大である。世界銀行では民間資金と公的資金を組み合わせた新しい支援形態の登場、企業がグローバルな課題に取り組むようになっているように、援助と商業は互いに接近している。さらに、官民連携による金利削減や、経産省による巨大なグローバルサウス資金の存在など、従来の枠組みを超えた動きが見られる。市場だけでは対応できない領域への補助金の位置付けも問われている。近接していた「開発・援助・財政投融資」の境界線の再編は、開発論の重要な視点となっている。
それに加えて、「開発」への接近・隔絶も重要な論点である。岩村昇の「ネパールの赤ひげ」が示すように、医療をはじめとする、いわばセクター別のアプローチの限界を実感する経験から、総合的な開発に取り組むようになった実例がある。他方、JBICとJICAの統合・分離の経緯にみられるように、同じ「開発関係」の実務であるにかかわらず、組織の性格は「開発」との距離感に影響を及ぼしている。こうした「開発関係」の実務を行う具体的な個人は、時間・空間限定の事業(project)と多方向性・多時間性の開発・発展(development)の矛盾しあう性質——そして解消し難い緊張関係——をどこまで受け止める余裕と視野を持っているのか。それを左右するものもまた開発論を編成する重要な力学と考えられる。
そのほか、国益をめぐる欧米/非欧米の違い、経営学と開発学の接点についての質問も出され、企業の社会的責任や開発インパクト評価など、新たな研究領域の可能性も示唆された。法学に比べて、開発論では、研究者共同体、ジャーナル共同体、実務者共同体は、言うまでもなく開発関連の異なる「概念」と「構造」をもっている。文脈同定的に捉えるしかない対話の多義性に対して、それぞれの文脈の可視化による力学の解明は今後の課題と言える。
最後に、これまでの議論を受けた新たな視座は大山氏によって示されている。開発論の既存の論を解釈し再紹介するのではなく、開発現象に関する実証的・制度的・歴史的研究を基盤とした開発論の構築が提案された。一例として、「援助大国日本」の再評価という視点が取り上げられた。青年海外協力隊の変遷や学会誌における議論の変化をはじめとし、開発論の系譜を再編成する動きは、「日本文化論」(青木保)の問題提起と重なっているように見える。戦後直後の日本への否定的な捉え方から、相対化を経て普遍的な位置づけへと変化する文脈に加えて、中国の浮上による歴史的相対化や、国際金融の変化、官民の役割分担の変遷などへの理解も不可欠であろう。日本の位置づけを再考するにあたって、ほかでもない開発論は刺激の富む言説空間になるに違いない。
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報告者の所感・御礼
本研究部会が目指す「開発論」の再編成とは何か。結論を出すことは難しい。しかしそれは、一本筋の「開発論」の系譜への抵抗になるに違いない。その理由は、これまでの議論で見えてきた、「開発」と「系譜」双方の複数性にある。
まずは政策の「歴史的系譜」だけみても、外務省・JICA・ODA中心の外交的文脈にとどまらず、農林、水産、通産、国土交通、国際文化交流など、多様なセクターの系譜が存在する。これらは独自の文脈と経験をもとに、それぞれが開発論に異なる視点を提供している。また、「歴史的系譜」の紐解き方にも複数性がある。同じ「歴史的系譜」に対しても、入手した資料の違い、学問分野の先験的な視点、目的の違いによって説明が異なる。例えば、青年海外協力隊の内発的・外発的史観や、日本の近代化の評価、日本型の原点特定などに見られる。これらの解釈の多様性は、開発論の豊かさを示すと同時に、単一の系譜に還元できない複雑性を表している。さらに、紐解き方への評価や価値付けも可変的である。植民地支配への評価、アジア貿易圏に伴う地域構想の変化、日本の開発経験の位置付けなど、時間的・空間的スケールの違いにより変化する。この可変性は、開発論が静的な知識体系ではなく、動的にせめぎ合う言説の場であることを示している。
開発論の再編成を巡っては、誰が、何のための再編成なのかという論点も重要であろう。危機・分断だけではなく、希望・連携を越境的に求める動きもまた同時多発的であることを忘れてはいけない。「より良い生」の方法と構想を探る開発論の再編成は、今日の研究・教育・実践の難題を受け止め、その良い循環を高めることを念頭に置く必要があるのではないかと考える。それは、自分を左右する錯綜なる力の漲溢と弛緩を可視化し、未来への道筋を照らす試みでもある。
平日の夜にもかかわらず、多くの皆様にご参加いただき、3時間以上の熱心なご議論、そして興味深い論点のご提示をいただきましたこと、ICUと東京大学から6名の学部生の皆様にもお越しいただいたことに、深く感謝申し上げたい。同僚の郭馳洋氏に会場設営等の業務をご担当頂いた。記して御礼申し上げる。
報告者・写真:汪牧耘(EAA特任助教)

