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2020.12.22

第11回 石牟礼道子を読む会

2020年1221日(月)15:00より、第11回石牟礼道子を読む会が開かれた。今回も前回に引き続いて土本典昭監督の記録映画『水俣——患者さんとその世界』(1971年公開)の鑑賞会を101号館11号室のスクリーンに映して実施した。COVID-19対策として、2回に分けた上映会の第二弾となる今回の参加者は、宮田晃碩氏(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)、建部良平氏(EAAリサーチアシスタント)、そして報告者の宇野瑞木(EAA特任研究員)の3名であった。全員の希望により、今回も2時間45分の完全版を視聴した。

本読書会では、6月より『苦海浄土』三部作を読み進め議論を重ねてきたが、水俣病に関する映像作品を視聴するのは初めてである。本作は1969年のチッソに対する裁判に参加した患者家族29世帯を中心としたインタビューと株主総会の様子がメインとなっている。映像作品として水俣病を扱った本作を観るという体験はどのようなものか、それが『苦海浄土』を読む体験といかに異なるのか、ということに関心があった。結論として、登場する人々や扱われた水俣病に関わる運動や出来事において、かなり小説と連動性がある作品であったと同時に、当然ながら映像ならではの部分も多くあった。白黒の映像は、光、形、動き、そして音声に対し注意を向けさせる。株主総会における白装束や黒地の旗に白抜きされた「怨」の文字、穏やかな不知火海の波間の光の揺らめき、そこに浮かぶ漁船のシルエット、その上を鳴きながら滑空する鳶、屈強な漁師の肉体、胎児性の子供の表情や特徴のある動きなどが特に印象に残った。

そして、2時間45分の間、わたしたちはほとんど言葉を発することなく、音に集中していた。インタビューされていた水俣病患者のいる家族の方言による会話や水俣病患者の途切れ途切れの独特の発話が、なかなか聞き取れないために、耳を傾ける必要があったからである。特に症状が重い胎児性水俣病患者の発話は、唸り声が混じり、途切れ途切れで殆ど聞き取れないものであった。その中でも胎児性の少年が「うみはひろいな、おおきいな」と途切れながらも歌っていた場面はとても印象に残った。その他にも、映画の中では、デモの声、株主総会での地響きのような怒号、その中で静かに響く患者家族たちが歌う御詠歌の声、そして映画の至るところで聞こえてきた不知火海の静かな波の音など、普段耳にしない実に多様な音声が記録されていた。

見終わった後、ぽつりぽつりと感想を交わし始めた。わたしたちが共通して意外性を感じた点は、水俣病患者と家族のコミュニケーションの場面であった。胎児性水俣病の子供は殆ど発話ができないが、その代わりに、まわりの家族がたくさんの言葉を補いながらコミュニケーションを成立させようとしていた。『苦海浄土』第1部の最初に登場する野球の練習をする胎児性水俣病患者と思われる少年と母親のやり取りでは、目が見えない少年が棒で石を打つぎこちない動きに対し、母親は世話を焼くのではなく、側で見守りながら饒舌に実況をするのである。小説には石と棒に集中する子供だけの世界が切り取られていたが、映像では、目が見えない胎児性の子供の世界を言葉で補い、共に創造していくようなコミュニケーションの在り方が映し出されていた。こうしたコミュニケーションの在り方は、石牟礼道子の幼少期における盲目で狂女と呼ばれた祖母「おもかさま」との関係性を思わせる、という意見もあり、石牟礼が水俣病患者の世界へどのように引き込まれていったのか、ということについて話し合った。また複数の人々が同時に会話を交わしているような場の雰囲気は、小説とは少し異なるものであった。例えば家族や患者たちの集まっている場面は、思った以上に賑いがあって、苦労や悲しみの中でも日常における笑顔や安らぎも見て取れた。これは小説という言葉による表現が、一人の視点からの語りというものから構造上逃れられない側面と関係しているように思われた。

一方で、映画と小説の表現方法における親和性というものも感じられたのは意外であった。たとえば、小説で語り手が顔を出すように、時折画面の脇に土本監督が映り混み、患者の家族にマイクを向け、相槌を打ち、質問をしたり、必要最低限のナレーションを自身の声で入れたりするのである。殆ど黒子のような振舞い方をしながらも、登場人物と会話を交わし、また地の語りをする態度は、石牟礼の小説における「わたくし」としての態度と似ており、記録映画という方法と小説との関係も考えさせられた。御詠歌の練習の場では、患者と一緒に練習に参加しながら微笑む石牟礼の姿も映っており、二人の記録者は同時進行で同じ場に居合わせて患者と関わってきたことが伺える。そこで二人が見ていた世界、見ようとした世界がどのように違うのか、そしてどのように共通しているのか、その表現形式の違いや影響関係も含めて考えてみたいと感じた。また、こうした映像による記録・表現というものを議論する中で、石牟礼がメモも取らずに佇んでいたと証言されることを思い起こしていた。たとえテープレコーダーで録音したとしても到底再現できるような世界ではないことは明らかで、これだけの出来事を水俣の風土と人々の営みも含めて言葉だけで描き切ろうとした石牟礼の凄みを再確認したのであった。

今回の上映会は、3名だけではあったが、大きなスクリーンで共に鑑賞し、議論することができて大変有り難かった。DVDを提供してくださったEAA特任助教の髙山花子さんには心よりお礼申し上げたい。年明けの1月の読書会で、2回に分けた上映会の参加者たち全員で議論することになっている。そこで、さらにどのような議論が展開するか、今から大変楽しみである。

報告:宇野瑞木(EAA特任研究員)
写真撮影:立石はな(EAA特任研究員)