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2021.01.26

ヒューム『自然宗教をめぐる対話』(1779)新訳刊行記念WS
「18世紀の対話篇を読む/論じる/翻訳する」②犬塚元先生報告

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犬塚氏の報告は、現代世界に遍在する対話(篇)への関心、その指摘から始まった。知的探求が専門化・細分化されていくなかで、対話篇は知の断片化に抗う「オルタナティヴ」な思考様式・表現形式として、称揚される流れがあるという。ここでは、理論ではなく活動としての哲学へ、自己省察から他者に開かれた語りへ、文脈の消去ではなく回復を、といった転回が、知の全体性の回復と連動している。ヒュームの『自然宗教をめぐる対話』が、専門領域を超えて幅広く読まれる可能性も、上のような希求が切り開いていると言える。

ただし、知のオルタナティヴとして対話篇を位置付ける際、単純な理想化は危険である。対話篇と一口にいっても、いろんなタイプの作品がある。まずは、その(ジャンル内における)多様性を理解し、適切な分類枠組みの下で、ヒュームの『対話』について精査することが必要なのだ。犬塚氏はアルバート・ウィリアム・レヴィ(「文学としての哲学:対話篇」1976年)に依拠し、「不平等な対話篇」と「平等な対話篇」というタイポロジーを提示する。「不平等な対話篇」というのは、登場人物たちの間にヒエラルキーがあり、一方が他方を教え諭す構造を持っている。執筆者の思想を体現した教師が、何も知らない生徒に対して、教育や説得のための対話を行う、というストーリーになりやすい。マキャヴェリの『戦争の技術』やホッブズの『コモン・ローをめぐる対話』が(犬塚氏による)例として挙げられた。レヴィの論考では、アウグスティヌスの『自由意志論』やマールブランシュの『形而上学と宗教についての対話』が事例となっている。これに対して「平等な対話篇」とは、異なった思想的立場がそれぞれ人格化され、複数の見解が競合するものを指す。ヒュームの『自然宗教をめぐる対話』は、この一例として理解できる。

ヒュームの『対話』においては、クレアンテスが経験的な自然神学を、デメアが論証的な自然神学を、フィロが懐疑派の立場を代表している。対話の過程で自然神学の難点が明らかにされていくが、そこから先の議論の勝ち負けについては、(パンフィルスの裁定が最後に置かれているものの)オープンになっている。ヒュームが描く対話の構造は複雑である。決して、ヒュームの代弁者となる特定のキャラクターが、他のキャラクター(=思想的立場)をなぎ倒していくような、単純なストーリーにはなっていない。ヒュームの書簡(1751年3月)を見ても、自身の敵対者を愚かなものとして、あるいは弱い存在として描くことに否定的である。このように、本書が「どのような対話篇なのか?」という問い、その構造的複雑さへの注目が伴って、はじめて「この対話篇でヒュームはどこにいるのか?」や「ヒュームはなぜ対話篇という形式を採用したのか?」という問いが意味を持つようになる。登場人物の誰か一人が作者の立場を代弁するのではなく、三人の登場人物それぞれに、ヒュームの声が分有されていると言える。『対話』冒頭に置かれた「パンフィルスよりヘルミップスへ」は、どのような対話が語られるべきかという、ヒュームによる対話篇のメタ記述として、読み解くこともできる。

本書の特徴は「ヒュームの声が各登場人物に分有されていること」、「どういった対話篇が望ましいかの(自己言及的)メタ記述が冒頭に置かれていること」にとどまらない。三人の対話という構図そのものが、対話の進行に伴って揺らぎ変化していくのである。対話の始まりと共に、フィロとデメアは(偽りの協力であったことが、のちに明らかになるものの)連合して、クレアンテスへと挑戦する。神と人間の非類似性をめぐって、正統派と懐疑派は連帯するのである。これは三人での対話というより、二つの立場の応酬という表現がより近い。さらに、対話に立ち会っている、パンフィルスの存在も忘れてはならない。彼は三人のやり取りを観察し、その優劣もあれこれ考えている。これを受けて、対話者が三人から四人になっている(ポイントもある)と言えるかもしれない。あるいはフィロの立場の一貫性に疑義を挟み、フィロがフィロ自身の意見を言っているところと、ヒュームがフィロの口を借りてあれこれ議論に介入している場面を、区分することも可能そうだ。第11章でのフィロの変化(著者の介入?)や、第12章での立場転換(フィロが「不規則的な」議論に屈して自然宗教を受け入れたか、非難をさけるためのヒュームのごまかしか?)などは看過できない。フィロの分裂に、作者ヒュームの影を見るのであれば、三人とパンフィルスに加えてヒュームもあわせ、五人で対話しているとみることもできる。さらにさらに、デメアが対話の場を去ったのち、フィロとクレアンテスの間には、コンセンサスのようなものが生まれている(ようにも見える)。クレアンテスはすべての論点に反撃しているわけではない。フィロが指摘する迷信の害悪について、クレアンテスは反論しない。こういったシーンでは、二人の対話というより、むしろ一人のモノローグが展開している。対話の枠組み自体がずらされ、対立や応酬のかたちそのものが変化していくのが、『対話』の特徴なのである。

本書の動的な対話構造を精査した後、犬塚氏の報告は、ヒューム思想全体における『対話』の位置づけを扱った。現代の読者にとって、ヒュームは観念連合や因果関係を論じた人、とイメージされがちである。こうした理解に基づけば、自然宗教を検討する『対話』は、ヒューム思想のコア・テーマから隔たった、マイナー作品であるという印象を持たれやすい。しかし、印象や観念といった、『人間本性論』で展開される知覚モデルは、実のところバークリやマールブランシュからの流用である。ヒューム思想の独自性は、既存の語彙や理論の「組み換え」、そして「読み替え」にあるのであって、知覚モデルそのものにユニークさはない。重要なのは、こうした既存のアイディアを使って、ヒュームがいったい何をやろうとしたかである。

ヒュームは認識論を出発点として、マールブランシュに代表されるデカルト主義の神学(=「神がすべての原因」と主張)や、クラークに見られる(ニュートン主義に基づいた)論証的自然宗教を論駁の対象とした。さらに、神なき世界に置かれた人間の在り方や社会規範の理解をめぐって、情念論・道徳論の領域へと進んでいく。『人間本性論』から始まるヒュームの知的探求、そしてヒューム思想の「ヒュームらしさ」を形作るのは、懐疑(不可知論)にもとづく脱宗教のプロジェクトなのである。ヒュームの著作群を「ポスト宗教対立の思想」として理解すれば、『対話』がそのセンターに位置する作品であり、ヒューム思想の全体像を理解する上で、格好の入門書であることが明らかとなる。邦訳の解説で強調されているように、「ここには、ヒューム思想のエッセンスが集約的に表現されているばかりか、彼の思想の実践的目的もはっきり示されている。対話形式で、ほかの作品より格段に読みやすいこともふまえれば、この作品は、ヒュームの思想に親しむために、最初に読むべき入門書としても相応しい」のである(236頁)。

『対話』の登場人物たちが、複雑な応答関係の中で議論を戦わせていたように、ヒュームが何とどう戦っていたのか、という構造も複雑さを持っている。それは、「サイエンスに象徴される啓蒙」サイドが、「宗教という無知蒙昧」なものを打ち倒す、という単純化されたストーリーではない。ヒューム、あるいは『対話』が批判的に吟味するのは、サイエンスによってアップデートされた宗教である。『対話』の中で、登場人物たちが連携したり、ぶつかったりしているように、ヒューム自身が身を置いた18世紀の社会/知的空間も、啓蒙、サイエンス、宗教の多様な組み合わせによって成立していた。動的な対話構造への着目は、こうした動的な18世紀の思想空間の構造把握へと結びつくのである。

 若澤佑典(EAA特任研究員)