断片の詩学、反響する声、高揚の効用
若澤佑典
かれこれ10年以上、「文」と「声」に携わる世界で生きている。30歳を過ぎた今でも、毎年、鮮やかな驚きがある。それは「おお、こんな本が世界にはあったのか!」だったり、「おお、こんな視点でものを語れる分野があるんだ!」でもあり、さらには「おお、こんなことを一緒に考えられる/話せる人が、他にもいたんだ!」という遭遇の喜びである。コロナの状況下ではあるが、図書館で本棚の前に立つたび、研究棟で同僚と話すたび、そして教室で学生さんの言葉を受け取るたび、「これまで世界に存在していたはずだが、昨日まではまったく気づいていなかった」こと・ものに、度々ハッとさせられる毎日である。日々、何かしらに驚いているので、血圧は高めだ。
新たな場で研究を始め、そろそろ一年である。文学部で「リベラル・アーツ」を担当するという、なかなか不思議な仕事であるが、その自由闊達な空間が私の性に合っている。(専攻を決める前の)学部一年生さんたちと、一緒に英語を読んでいく。文学部という学びの場を、授業テクストの選択、そして読みの実践から、どう俯瞰的に体験してもらうか、一回一回の授業が勝負である。また、英語リーディングから各専門分野にいたる道をたどりつつ、専攻分野に分かれる前の「文学部まるごと」って何なのか、俯瞰的に探っていく作業は、もはや「ことばの森の探検隊」の気分である。本職のなかで、以下のことを自己規範・理念としている。
- シラバス、そして授業タイトルが、私と学生さんをつなぐ最初の窓である。だからこそ、シラバスは「未来へのお手紙」だと思い、一筆入魂する。また、せっかくの場なので、シラバス文はどこか愉快に、文学部の楽しさが伝わるようなものに。情報の入れ物や要約であることを越えて、授業タイトルは「こんな授業なのかな~」と学生さんを想像に誘う、チャーミングなものを「頭を振り絞って」ひねり出す。
- 英語の授業を、単純作業を反復させる「苦役の場」にしない。テクストを読むことは、テクストと考えることであり、思考すること(への傾き)は押し付けの作業では不可能だ。私ができることは、教室で私自身が「あーでもない、こーでもない、これ何なんだ??」と、テクストを前にして、あたふたする姿を見せること、そして学生さんのウィークリー・コメントを皿のように読んで、「ここ、とっても面白い!あなたのこの論点について、もっとここを聞いてみたい」と、一緒に「面白がりながら」問いを発することである。一言で言えば、英語の授業教室を「協働探求の場」にしていく、ことである。
- 読むこと(もっと言えば「ガクモンすること」)を、日常生活のなかへと放り込む。「動いて」読み、「歩いて」考える。必要があれば教室で地図を広げ、文章のイメージを絵に描き、英文にBGMやキャッチコピーをつけ、課題作成で舞台やドラマにリメイクしてもらった。「英語授業とはこういうものだ」という固定観念を、適度にユサユサしてみる。「こうではない、別のやり方があるかもしれない」という視線を一緒に探ってみる。英語授業とは、それ自体が「創作」行為である。
- 私自身が「答え」をもたないこと、これから考えたいことを、授業の素材とする。そのために、私自身が英語のフロントラインで呼吸するような、そういった研究者として生き続けられるよう、日々励む。学生さんたちにとって、「難しいこと・わけわからないこと」が「理解できないから、オモシロい」に変換されるような糸口を、絶えず探していく。学生さんとの会話で新たなテーマと遭遇したら、関係する本棚のコーナー、出版サイトにチラッと目を通す。ハッとするような授業内の「偶然」を呼び込むためには、必然を情熱的に尽くしきらねばならない。
上記の四か条は、春に「よし、これからこの命法で行くぞ」と決めたというより、授業をやりながら「自分が大事にしているものって、なんだろう」と考えながら、内なる衝動を半年ほどかけて言葉に彫刻していったものである。ちなみに、学生さんに話す際は、「ウィトゲンシュタイン・ティーチング」という妙な命名をして、上記の説明をしている。ウィトゲンシュタイン(研究)の関係者からは、「ウィトゲンシュタインと関係ないぞ」と怒られるかもしれないが、ナポリと関係ないスパゲッティ・ナポリタンという命名もあるので、どうかお許しください。学部時代に読んだ、ノーマン・マルコムの『ウィトゲンシュタイン:思い出の記』が大変印象的だったのです。。。
実際に私の授業がどんなものであったか、学生さん一人一人の受け止め方があるだろうし、「一緒に学期末にたどり着いたぞ!」という共有体験は、第三者に向けて客観的に書こうとすると、「本当に大事な部分」がスルリ、スルリと逃げ出していく。振り返らずに、2022年度へと進んでいくことにしたい。教室の一人一人が何を考えていたのか、どんな感じを持っていたのか、究極的には分からない。学生さんは、他者という謎と秘密の源泉(?)なのだから。ともあれ、私自身はおおいにインスピレーションをもらい、教室の中で飛んだり跳ねたりしながら(比喩ではなく、ソーシャル・ディスタンスを維持しながら、実際に動き回って授業をしていた)、あれこれ一緒に考えることができ、授業メンバーの一人一人に感謝している。果たして5年後、10年後に自分がどういった研究者になっているのか、予想はつかないが、2021年に感じたことを、どこかみずみずしく「大事に大事に」保っていきたいと思っている。シラバスが「未来の学生さんへの手紙」であるとするならば、この文章は「未来の私に対する檄文」とでも言おうか。
ブログ・コーナーのタイトルになっている「離す」だが、味わい深い言葉である。大学のキャンパスは悠久の時が流れているようで(実際、そういう部分もあるし、それが良さであるところも大だが)、いろんなことが流動変化している。「私」自身も「今の私」を離れて、未知へとさらに分け入っていかなければならない。離れることで「自分の心のひきだし」に眠っていたものが、ハタと目覚め、新たな輪郭をなして「花」していく。「水曜どうでしょう」のテーマソングではないけれど、そんなふうに、そんな風に生きていきたいものだ。こうした自己の中の断片を、場の引力の中で並べつなぎ合わしていく営み、これを「断片の詩学」と私はよんでみたい。破片の中に未来があり、それを拾い集める「私」自身が、反響する声たちの過渡的な生成物なのだから。
2022年2月7日
子供たちの声が響き渡るキャンパスから、
101号館という静かな山に向けての「ヤッホー」を込めて
Photographed by Hana