「悦ぶ」こと
石井剛
2021年12月7日の夕方に101号館のセミナー室で行われた(ハイブリッド形式の)ワークショップは、中国や台湾における現代書院制度の勃興に関して、この現象を専門に研究なさっている山﨑直也さんと日暮トモ子さんにレクチャーしていただき、それをもとに皆で「書院」という魅惑的な人間教育の場のあり方について議論するよい機会でした。中国での現代書院では、共通の特徴として教員と学生が共に成長すること(中国語で「教学相長」ですね)を目標に掲げていることが挙げられるようです。しかし、大学内に新たに書院を制度として設けるにあたっては、学内で消極的な意見も多く、運営にあたっても教員の配置に関してしばしば困難が生じるということも指摘されました。また、結局のところ、学生の学寮生活を「管理する」ことに主眼が置かれることになり、教学相長の理想は形骸化していく傾向があることもわかってきました。
田中有紀さんは、自身が北京大学に留学したこともあるという経験を踏まえて、中国の大学の寄宿制度を羨むと同時に、そこには「教員が育つ」ことが必ずしも目指されていないのではないか、どうすればそれは可能になるのか、というたいへん重要な問いを発してくれました。
わたしのこの問いに対する答えは明確で、教員が学生との生活の共同から何か得るものがあるとすれば、それは「悦ぶ」ことにほかならず、そして、「悦び」はあらかじめ制度にプログラミングされているものではなく、プロセスを経験することによってしか得られないものである以上、書院に関わる教員にはボランタリーな意志が必要であるということになります。書院が書院として機能するためには、その場を共にする人びとが、「その場を共にする」という一点において悦びを得ること以外にないように思います。「学びて時にこれを習う、亦た悦ばしからずや」というかの有名な『論語』学而篇のことばはまさにこのことを言っているのであり、第二句に「朋あり遠方より来たる、亦た楽しからずや」と続くのは、「学」が「朋」を呼びながら行われていることを何より端的に表しているのです。最近亡くなった現代中国が生んだ偉大な哲学者李沢厚が楽感文化と言ったのはまさにこのことです。
「悦び」は必ずしも自らの主体的な働きかけによって初めて得られるものではないでしょう。偶然他から与えられたことを最初はいやいや取り組んでいるうちに、楽しさに気づきそれを悦びに転化していくこともあるでしょう。また、悦びはプロセスに潜むと言ったところで、プロセスが常に悦楽に満ちているわけでないことは、わたしたちの対人関係がしばしば苦々しい摩擦を生じることからも明らかです。というより、そのような苦難を抜きにして、共にあることの悦びはないと言うべきなのかもしれません。
悦びこそが学びから得られるほぼ唯一の報酬であり、朋と楽しむことがそのための条件である。『論語』が教えてくれるのはそういうことだと思いますので、大学の制度としてただ書院(residential college)を設けて、そこに「教学相長」の目標を書きこむだけではうまく機能しないはずです。その場における悦びを求める人にのみ開かれているのが書院の書院たる所以ではないでしょうか。
2021年度に入ってから、EAAでは前の年から始動したさまざまなプロジェクトがそれぞれに花咲かせ始めています。そこに集う一人ひとりがそれぞれのあり方で「花し」ているさまは、まさにそのひとつひとつが悦びの表現であるとわたしは思います。
EAAは、中国で行われている現代書院が有しているresidential collegeとしての機能は有していません。しかし、第一高等学校の流れを汲む駒場において、書院の精神を具現化すべき場として成長したいとわたしは思っています。そういうわけで、これからはブログの場をお借りして、折に触れて「悦びの記」を書いてみたいと思っています。
2021年12月7日
Photographed by Hana