所有から離れて
石井剛
しばらくこのコラムから離れていました。文字通り「離れていた」のですが、「話す/離す/花す」というこのコラムのタイトルのなかで「離す」には明らかに異様な雰囲気が漂っています。それは言うまでもなく、COVID-19の世界的流行が始まって以来、人と人との距離を離すことの生命維持観点から見た重要性が強調されて今日に至っているからですね。もっとも、わたしがこうしてこのコラムを書いているときにも所属しているこの国では、かかる意味での「離す」の政治性も隔靴掻痒のもどかしさの中で曖昧に溶解し、「自粛」という強制でも自発でもない、それでいて「中動態」と呼ぶにはあまりにも不適格な行為規範の効力が長持ちするはずもなく、「離す」ことの意味は曖昧なまま、多くの人々は「つながる」ことを求めてでしょうか、街にくり出すようになっています。「離す」ことも「つなぐ」ことも、人と人の関わり方、つまり政治の問題であるにも関わらず、それが茫漠とした気分の中で、ただ生物的な生命の欲求の範囲を出ることなく、行為されていく。人間的な生のあり方への反省もないがしろなままにパンデミック下の生活が消費されていくのに付き合わされるこうした日々には、やりきれなさが募るばかりです。
「離す」をタイトルに入れることには、当初やや戸惑いもありました。それは強制的な隔離こそが感染拡大防止のための最良策であるというメッセージが、武漢のロックダウンを皮切りに主に北半球の裕福な国々の多くで共有されており、それに対する強い疑念がEAAのメンバーの中にもあったからです。しかし、わたしは「病毒」(「ウイルス」を表す中国語名詞です)の保有者を/から隔離するという処置の是非だけではないところから、「離す」ことの意味(政治的な意味、人間的な意味)をもっとちゃんと考えるべきではないか、そうしないと生きとし生けるものがみな「花す」ことにもつながらないのではないかと、そういう予感がありましたので、このタイトルを提案してみたのです。
いま、中島さんに書いていただいた初回のエッセイを再読すると、たいへんうまく「離す」ことのポテンシャルについて表現されています。それは「思考のスペース」を開けるためにこそ「離す」ことが必要なのだという意見です。このコラムの中でわたしも書きましたように(第9回、2021年1月12日)、この数年間、「変化を可能にするスペース」について考えることを、あるきっかけに促されて続けてきました。最近それで関心を持っているのは『荘子』に出てくる渾沌の寓話なのですが、それはともかくとして、結局のところ、そうした「スペース」は、所有に対する欲望を断ち切らないことには実現しないのかもしれません。まるで、文字が書かれたその直後から書いた人の手を離れていくように、わたしたちは、自分に属すると信じ込んでいる何かを手放すことでこそ、「花」を咲かせられるのではないかと思うことがあります。これはひょっとすると、ただ所有に対する欲望を断ち切ることにとどまらず、種としての生命の存続に対する欲望を断つことにすらつながるのかもしれません。なぜそんなに悲観的なことを、と訝る方もいることでしょう。しかし、そうではないのです。
手放すことによって万物が「花す」ことは、求道者の倫理的な信念や目標ではなく、この世界の単なる事実ではないでしょうか。複雑系科学の中では、いわゆる「カオスの縁」において共進化が促されるメカニズムが「自然に」機能していると言われます。「カオスの縁」とは、まさに「変化を可能にするスペース」だということなのです。もしそうだとすれば、自然界においては、倫理的な理想とはまったく無関係に、事実として、「花す」ことが実現しているのだということだと思います。しかし、面倒なのは、人類という種は、複雑系科学が提示してくれるような予定調和の自然とは異なっているということです。それはきっと、コジェーヴが言うように、人類だけが欲求ではなく、欲望を持っているからなのでしょう。
例えば、「コモンズ」という考え方には、所有のあり方を私的所有ではなく共同所有として実現しようという思想があるのだと思います。しかし、「コモンズ」を共に所有するためには、たいへんな努力が必要になるはずです。なぜなら、そのためにはやはり、所有したいという欲望をどこかで断ち切る(部分的にでも)ことが不可欠だと思われるからです。「コモンズ」という「カオスの縁」を保つことは、人間の世界ではこのような至難の業なのではないかと思います。
しかし、「コモンズ」はなおも人間を中心に世界の秩序が構成されるための方策という範囲を出ないかもしれません。どこまでこの概念が有効なのか、この概念が届かないところまでわたしたちは何らかの責任を追うべきではないのか。そういったことを考えるのは、まさに人間が人間であるからだとわたしは信じたいと思っています。ですので、欲望をあるしかたで断ち切ることは、所有とはまったく異なる次元においてわたしたちが希望を見いだすことにほかならないのではないか。そう思って、学術フロンティア講義でも「宇宙的希望」という未熟な言葉を使ってみたりもしました。
所有への欲望を離れることによって、「私」を含むすべてのものが「花す」結果になるのなら、それをこそわたしたちは悦ぶべきではないでしょうか。最近わたしはそのように考えて、わたしがいないところにわたしが播いた種が思いがけず花開くことを夢想しています。
2021年8月26日
Photo by Hana