「文運日新」解題
石井剛
次第に開花時期が早くなりつつある傾向は今年も変わらず、3月半ばにはもう東京でも開花したソメイヨシノは、これを書いている3月29日にはすでに散り始めています。このブログ連載コラム「話す/離す/花す」は、ことばを使うことによって人たり得ているわたしたちが、ことばを媒介にしているがゆえに生じるずれや距離を人としての倫理の契機であるととらえつつ、いかにしてわたしたちが共に成長しながら、それぞれ「花する」ことが可能であるか、その条件をいっしょに考えてみようという趣旨で始まりました。それはより直接的には、昨年来のテレワークによって、身体を伴ったコミュニケーションから切り離されたがゆえに否応なく生じた、ことばと仲間との間の距離感の不穏な動揺から、もう一度、わたしたちにとっての協働の空間を希望あるものとして再構成しようという、ある種切迫した気持ちの産物であったことも、憚ることなくここに記していくことは決して無意味なことではないでしょう。
テレコミュニケーションが人と人の関係を取り持つのにじゅうぶんな方法でないことは、この一年の間にほぼ明らかになったと思います。少なくとも、このコラムで田中さんが適切に示してくれたように、「儀礼的なものはオンライン環境で完遂できない」のです。そして、まさに儀礼的なものを通じて人は周りの人々と共に変化を醸成し、世界の創造に関わっているのです。それはわたしたちの身体と言語によって表現されるパフォーマティヴな現実関与のあり方そのものであり、わたしは大学という空間が有している最も本質的な意義は、こうした儀礼的なパフォーマティヴィティによって、来るべき未来に向けた「変化のため」を生み続ける場であると考えています。
ところで、親しい人がやがてわたしのもとから離れていくのにも似て、発せられたことばはその瞬間からすでにわたしのもとを離れています。いや、そもそも「わたしのことば」なるものはもともとないのでしょうが。わたしたちの「関係」は離れていることによって初めて成り立つものであり、それ以外にはあり得ません。そして、漢字の世界では、そうして成り立つ関係のことを「文」という概念によって括りだしています。
春は心を晴れやかな気持ちにさせます。しかし同時に春は別れの季節でもあります。このたび、特任研究員の若澤佑典さんが晴れて新しい天地を獲得し、EAAを巣立つことになりました。テレワークの一年、彼がオフィスで勤務したのは合わせても数日にしかなりませんが、やはりEAAから離れていくことには一抹の寂しさを禁じ得ません。しかし、若澤さんは、友情が必然的に有する距離ゆえの希望について、いかにも「文」的に思考する人でもあります。それは、彼が「編む」という表現でEAAスタッフ間の友情を形容していることに表れています。「文」とはそのかたちの通り、交錯しながら編まれていくものですから。こうした若澤さんによって発せられるメッセージはわたしたちみなを励ますものであるにちがいません。わたしもそこに悦びを見いだす一人です。
こういうことを考えながら、彼の離任のあいさつには「文運日新」というタイトルをつけてみました。これは魏晋南北朝時代の劉勰という人が書いた『文心雕龍』から取ったものです。原文はこうです。
文律運周,日新其業。變則其久,通則不乏。趨時必果,乘機無怯。望今制奇,參古定法。
「文の創造はめぐるようにとどまることがなく、日に日に新たなものが生まれる。変化することで持続することが可能となり、通ずれば欠乏することもない。時に臨むには果断であるべきで、機に乗ずるのにおそれをなしてはいけない。現状をよく見て奇なるものをつくるにしても、古を参照して原則を定めるべきだ。」というほどに解釈できるでしょうか。このことばは通変篇に見えるものですが、そのなかでは「通變則久(変化に通ずれば持続できる)」ともあります。これはThe Book of Change、つまり『易経』を貫く主題に通ずる中国哲学得意の論点であると言えるでしょう。わたしたちは日々新しくあるために、変化を求め、果断に時をとらえるべきです。しかも、それは単に奇をてらうだけではなく、古を参照しつつ行われるべきなのだと、このくだりは告げています。若澤さんや、そして、近い将来ここから巣立って行くであろうすべてのお若い方々、そしてまさにこれからEAAに加わる一人一人の皆さんに、このことばは向けられていると思います。縁あって新たな職場に赴く若澤さんの前途を改めて祝福します。そして、わたしたちの「文」がつねに新しく、それによってわたしたちが共に成長していけることを期して、「文運日新」の解題といたします。
2021年3月29日
Photographed by Hana