物語りのほとりで――死に対して花を添えること
宇野瑞木
大往生を遂げたひとりの老婆の話である。
彼女は、幼なかった少年の心を二度大きく動揺させた。
一度目は、「お前はお前のお祖父さんである」と告げることによって。
その後、しばらく、少年は見たこともない夢を見続けた。
二度目は、彼女の死の直前である。
「わたしはお前を見守り続けるから」。
この慰められることのない慰めの言葉を、少年はいまだに忘れたことがない。
――中島隆博「精神」『事典・哲学の木』
ちいさな子供は、道端でいろいろなものを見つけるものである。子育てをするなかで、道の上をつぶさに眺めることを再びするようになった。路の上、土の上には、いかに情報が満載であることか。歩くためだけの道となってしまっていた道は、小さな子供の目から見ると非日常に溢れている。大雨のあと、道の端に側溝に向かって流れる小さな川ができているのを見つけ、光が差し込む水中や水面に木の実や虫の死骸や花びらや木の葉がどんどん流されていくのを、じっとしゃがんで眺めたり、キラキラと光るものが道を横断していくのを見つけて、そのシロテンハナムグリの緑の宝石のような美しさに感動したり、カエルや虫の死骸を見つけては、その体を拾い集めて庭に持ち帰ってお墓を作ったりもした。
とにかく、お墓を庭に沢山作ってきた。虫が好きな息子は、幼稚園に入った頃からカブトムシやクワガタを飼うようになった。卵が孵ると幼虫のまま冬を越し、夏に成虫となり、卵を産んでから秋口に死んでしまうと、息子と娘と庭にお墓を作った。お墓をつくる時には、庭中の花をあつめてきて、花がないときは色づいた紅葉やねこじゃらしなどあつめてきて、石を円形に並べて標とし、手を合わせた。そのような時、幼稚園年少の頃の息子は、お墓にむかって「次の夏にはまた会おうね」と声をかけていた。次の年に成虫になるカブトムシの個体は、このカブトムシと違う、ということは思わないのが不思議だった。あるいは親子の命の連続性をもって言っていたのかもしれないが、私はその意味について聞くことはしなかった。
そして、気が付くとお墓はどこにあったかわからなくなっていた。人間とはじつに勝手なものである。こうした行為をするたびに、何をしているのだろうか、と思う。なぜ石を並べ花を添えているのか、そして掌を合わせるということをして、言葉をかけるのだろうか。たまたま摘み取られた花もすぐに枯れてしまう。そして、このようなことをしても、生き物を飼うという行為に対するなんともいえない後ろめたさや罪の意識は拭いきれるものではない――、そのような思いも去来するのである。
昨年の晩秋に、近所の方から頂いたチューリップの球根を植えようと庭の土を掘っていた時、ぎょっとした出来事があった。おととしの秋に埋めたカブトムシの角の部分が出てきたのである。カブトムシの甲殻は丈夫で一二年くらいでは土にならずにしっかり形をとどめていることがある。わたしたちは、球根と一緒に角も埋めて、掌を合わせ、もう一度、弔うときの言葉を捧げた。ふさわしい言葉が見つからなかったが、それでも死者に何かの言葉をかけるという儀礼を省略すべきではないと思った。それはもう、「次の夏に会おうね」という言葉ではなかった。
「飛花落葉」という言葉が昔からある。花は風に散り、葉も風に落ちてしまうように、いつまでも変わらないものはない。人は死への向き合い方をどのように覚えるのか。二人の子供は、不思議なことに、幼稚園の時に「無常」というものを悟った。毎晩、わたしに聞いては泣くのである。「ああちゃま(おばあちゃん)は死んでしまうんでしょう?」「おかあさんは死なない?」と。
年長になった頃から、息子は寝る前に自分が死ぬということについても口にするようになった。驚いたのは、「大好きな人たちが死ぬのを見たくないから、自分が先に死ぬ」という言葉を発したことだ。大事な人たちの死は、彼にとってそれほど切実な問題なのである。上の子がそうであったように、気が付いたら、このような繊細な時期は過ぎ去ると思う。私たちはこのような思いを抱き続けながら日々を送れないのだから。でも、このコロナ禍で、彼はおばあちゃんとおじいちゃんが自分より死に近い存在であるということを強く感じ取り、そうしたことが影響して、このような言葉となったのかもしれないと思う。
こうした変化は、彼の中で虫の心を慮ることにつながっていったのだろうか。その夏の初めに、「虫かごで飼うということは虫にとって本当に幸せなのか」という問いに対して、彼のなかで明確な答えが出た。そうして息子は、カブトムシが自生するコナラなどの木々が森のようになっているところがある大きな公園に持って行って、全てを手放すという一大決心をした。
わたしたちは、樹液が垂れている古いコナラの木を探し出した。そして、土からでてきて一週間もたたないカブトムシたちを虫かごから取り出して、一匹ずつ幹に放し、上へと登って確認できなくなるまで、その光る丸みを帯びた立派な姿を見ていた。はじめて幹に足をかけたときは戸惑っているような様子を見せていたが、そのうち自力でどんどん登っていった。風や光、世界というものをはじめて体感していると私も息子も感じていた。この心はわたしの勝手な思いこみに過ぎないのかもしれない。人間とは自分勝手な存在だ。それでも、虫の心というものを、わたしたちは感じている気持ちになっていた。
翌日、大雨が降った。私はずっとあの幹にしがみついているであろうカブトムシたちのことを思っていた。もしかしたら、死んでしまったのではないか。それでも、自然の中に命をまっとうしたら幸せなのだ、と思い込もうとした。それからも、時々私たちは、あのカブトムシたちはどうしているだろうね、と話し合った。
いまでも、ふとあの光と風のなかの木の場所に思いを馳せることがある。
2021年3月9日
photographed by Hana