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2025.04.27

【報告】「敗戦後論」その可能性の中心

EAAシンポジウム 「敗戦後論」その可能性の中心
日時 202541910時〜18
   202542010時〜17
場所 東京大学駒場キャンパス101号館セミナールーム
主催 東京大学東アジア藝文書院

 登壇者
キム・ハン(延世大学)
藤原辰史(京都大学)
エリス直美(UCLA博士課程)
白井聡(京都精華大学)
王欽(東京大学)
國分功一郎(東京大学)

 

 1995年、日本が「戦後50年」を迎えた年、文芸評論家の加藤典洋が『群像』同年1月号に発表した「敗戦後論」は、敗戦国日本がいまだアジアへの謝罪を為しえていないという問題の中心にこの国の体制・憲法・思想・文学等々の「ねじれ」を見る問題提起の論考であった。その後、その主張を巡って大きな論争が巻き起こり、加藤の論考は激しい批判に晒されることとなった。

 単なる一学生として論争を目撃していた私は、当時、自分の中に強いプレッシャーのようなものを感じていた。第二次大戦における東アジアおよび日本の死者への哀悼と日本の戦争責任、そして日本がなした加害行為に対する謝罪──論争の中心にあったこれらの論点について、私は自分なりの答えを見いだせずにいたからである。私はどこかで誰かに向けて発表するためではなく(言うまでもなく、私は単なる一学生に過ぎなかった)、ただ自分の中で、自分のために、これらの論点について自分の態度を決めねばならないと感じていた。

 論争を見ていても手がかりは少なかった。そもそも論争を見ながら、加藤の論考そのものに対して興味を失っていたし、実際に手に取って検討したこともなかった。当時、愛読していた、浅田彰氏・柄谷行人氏編集の雑誌『批評空間』で行われた共同討議「責任と主体をめぐって」(1997年、II-13号)がこの論争を取り上げており、そこでの議論はさしあたっての私の準拠点にはなった。だが、私は先の論点について自分が自分の頭で考えていないという感触を持っていた。論争に対する私の評価は借り物であった。にもかかわらず、私はまるで自分で考えたかのように、その討議で語られていたことを、さしあたっての、自分の中での自分に対する答えとしていた。

 借り物を使って考えた振りをしている自分を私は軽蔑した。そして更に、その軽蔑にも目をつむった。借り物を使って考えた振りをしているという事実そのものから目を背けたかったからである。これはいわゆる自己欺瞞である。人間は自己欺瞞の状態においてものを考えることはできない。ものを考える時には、自分の考えに目を向けなければならないが、自己欺瞞は自分に目を向けることを妨げるからである。つまり、私はその時、この論争の論点について考える能力をほとんど失ってしまっていた。

 しかし、自分に対する軽蔑、軽蔑にも目をつむる自己欺瞞の経験そのものを完全に消し去ることはできない。抑圧されたものは常に抑圧され続けねば回帰する。私はその後、何度かその回帰を経験した。だからこの事実は私の心のしこりとして意識された。いつかこの論点について考える機会を設けたい。そのようにぼんやりと考えていた。

 30年を経てその機会が訪れた。

 私は昨年、すなわち2024年の426日に韓国ソウルで行われた、戦後の韓国と日本の民主主義をテーマとした韓国政治思想学会の会合に招かれ、そこで戦後憲法と天皇についての招待講演を行った。その中で私は、立憲主義が危機に陥った2012年成立第二次安倍政権下において、明確に護憲的・立憲主義的だった当時の天皇の立場をリベラル勢力が歓迎した事実に注目し、これを「天皇への敗北」と表現した。自国の憲法を自らの手で担う国民を作り出そうとしてきた戦後憲法学の試みは、結局は天皇にかなわなかった。「我々」日本国民は、自らの手で自国の憲法を守り抜くことはできず、それを守るために天皇にすがった。「これが現時点での日本の戦後民主主義の到達点である」(國分功一郎「天皇への敗北──戦後日本の民主主義における憲法の物語について」『新潮』20249月号、167頁)

 この敗北の原因と起源はどこにあるのか。私は30年前に行われたあの論争を思い出した。あの中にヒントがあるかもしれないという直観が私にはあった。戦後80年という区切りも無関係だったわけではない。ただ、何よりも大きかったのは、この論点について一緒に考える仲間が得られたことである。

 ソウルでの学会への招聘にも尽力してくれた延世大学のキム・ハンは、加藤典洋の文章をしっかりと読むシンポジウムを企画したいという私の思いつきに、その場ですぐに同意してくれた。教え子の一人、エリス直美があの論争に関わる博士論文を執筆中であることは既に知っていた。また、ちょうどあの頃、30年前からの友人である政治学者の白井聡が日本の「永続敗戦」という仮説を提唱しており、その仮説が加藤の議論と接点をもつことは以前から知っていた。白井がネット番組「エアレボリューション」に招いた歴史学者の藤原辰史は、番組中、現在のイスラエルによるガザ侵攻と戦後ドイツの関係を語る中で、30年前の論争に言及していた。EAAの同僚である王欽はシンポジウムのアイデアに同意し、加藤の文学論について考えてみたいとすぐに返事をくれた。

 これらの仲間は、一度自らの立ち位置を決めたらそこから絶対に動かないという仕方とはまったく異なる仕方で、この論争の出発点になった文章を一緒に読んでくれる学者である。何かをあらかじめ当然視するのとは異なる仕方で共に議論できる学者である。私は彼らに、当時の自分の経験を素直に語ることができた。繰り返して言えば、それは、自分の頭で考えず、借り物を使って考えた気になり、思潮に目をやりながら「こちら側にいるのがどうやら当然のことらしい」と判断を下し、しかもそのことから目を背ける、そんな経験である。

 もちろん、以上の心情吐露のような話は、このシンポジウムの座長である私の心の中の一人芝居に過ぎないから無視されてよい。ただ、この論点について語りうる仲間たちを得たという事実は、私に、「当時、こんな経験をしたのは私一人ではなかったのではないか。他にもいたのではあるまいか。あの経験がしこりとして残っている、そういう人は他にもいるのではないか」と考えさせた。だからここに記すことにする。そして、加藤典洋の著作を今回はじめて真剣に読み解いてみた今、こうして自分の経験にこだわっている点において、私は自らの態度が、加藤の態度に非常に近いものであると感じている。

 このシンポジウムに集ってくれた仲間たちの繊細な発表内容を正確にここで要約して伝えることは不可能である。私はただ単に、自分にとって重要であった論点、自分が考えを進める上で役に立った論点を紹介するに留めたいと思う。本シンポジウムの目的は当時の論争のどちらの陣営が正しかったのかを改めて判断することではなかった。実際、そういった話にはならなかった。したがって、本レポートはあくまでも加藤の論考をどう読み、どう位置づけるかという観点から書かれている。だから「論争」という言葉は使うけれども、当時の論争そのものにはほとんど言及しない。

 当時の世界情勢、それに伴う思潮はこのシンポジウムの大きな論点であった。90年代半ばを特徴づけていたのは、なんと言ってもそれが冷戦集結の直後であったという事実である。加藤の論考があれほど話題になったこともこの事実と切り離せない。そもそも加藤の論考など見向きもせずに切って捨てることもできはずなのだ。私は一つの補助線として、当時、国民国家(ネーション=ステイト)批判が大流行していたことを指摘した。あの流行はなんだったのか。あの流行の中で書かれた論考のうち、どれほどのものが今もなお価値を持っているだろうか。

 冷戦後という時代をより具体的に捉えるための重要な論点がいくつも提示された。白井聡によれば、加藤典洋の「敗戦後論」の最大の功績の一つは、「戦後」ではなくて「敗戦後」を指摘したことにある。白井は自らの著作『永続敗戦論』の議論にも言及しつつ、敗戦の否認がいかに「戦後」の日本の政治と社会を歪めてきたのかを強調し、敗戦と占領にこだわった憲法学者や文学者を大々的に取り上げた「敗戦後論」の議論に大いなる関心を払った。

 白井によれば、戦後の東アジアにおける米国の支配は、日本と韓国と台湾をいわば「反共三兄弟」として規定しつつも、反共の最も過酷な部分は韓国と台湾、更には沖縄に負わせるという残酷で不当なものだった。この点についてキム・ハンは、冷戦後、この勢力図に大きな変化があったことを指摘する。これら三国に反共国家として仲良くさせようとする米国の意向は冷戦後に弱まる。すると、戦後、犯罪としてのみ特徴付けられていた戦中の日本の所業がより具体的に問われるようになる。日本の植民地主義の問題、更には沖縄の位置づけがその意味で90年代にクローズアップされる。だが、加藤典洋は植民地主義や沖縄を十分に考慮していないのではないか。キムはそう指摘した。キムは加藤の言う「汚れ」「ねじれ」の議論がどこか観念的になっていること、そこにある観念論をマルクス的に反転させる必要を強く強調した。

 90年代、日本の植民地主義の問題は、少なからぬ場面において、ドイツの戦後と比較して論じられた。ドイツ史の研究者である藤原辰史が本シンポジウムに関心を抱いてくれたのもそのためである。そしてこれは単に過去の問題ではない。現在、イスラエルによるガザ侵攻が世界中の非難を浴びているとともに、それを擁護する言説がドイツの知識人たちから発せられることに驚きの声があがっている。だが、実はそれは決して故なきことではないのではあるまいか。藤原は90年代頃に始まった「歴史の商品化」、二回の歴史家論争などを丁寧に論じると共に、「警察的知性」とでも呼ぶべきものがイスラエル擁護に回っているのではないかという仮説を提示した。現在、ナチ研究の内部で起こっている大変動についてのレポートは実に貴重であった。

 本シンポジウムが取り上げた論争に注目しながら、戦後日本と近代政治理論を関連付ける博士論文の執筆に取り組んでいるエリス直美は、加藤が論争の中で、ヘーゲルを参照しつつ用いた「ドレイ」の語に注目していた。ここで「ドレイ」とは、何らかの理由で信念を変えなければ生きていけなかった経験をもつ者を指す。いわゆる「八月革命説」はこの経験から目を背ける効果をもっていたのではないか。丸山真男は「戦後民主主義の〝虚妄〟に賭ける」と言い、江藤淳は戦後日本の民主主義を「ごっこ遊び」と批判した。演技をそれでも演技として大切にするか、演技を不真面目なものとして否定するか。この対立において、「敗戦後論」はどこに位置づけうるのか。江藤の議論にどれだけ見るべき価値があるとしても、彼は結局はすべてをスッキリさせたいという方向に向かってしまう。「ドレイ」についての加藤の議論は、それとは違うポテンシャルを秘めてはいないか。エリスは「東アジアの二〇〇〇万人の死者を追悼するために、その前に自国の三〇〇万人の死者を追悼しなければならない」という加藤の提唱には明確に距離を取りつつも、加藤の議論の中に、この対立を抜け出るヒントを探ろうとしている。

 90年代のこの論争は単に過去のものではない。既に当時「自分が行ったわけではない戦争の加害行為についてどうして私が謝罪しなければならないのか」という声は大きな論点となっていたが、これはいま更になお一層アクチュアルな論点になっている。王欽は、加藤が論争の最中で言及するに至った「ノンモラル」という言葉を手がかりに、責任についての一つの立場を描き出した。「そんなことは私には関係がない」というのがノンモラルである。ではノンモラルは単なる無責任であろうか。責任を引き受ける時には、引き受けなくてもいい、引き受けることができないはずのものを引き受けるという契機がなければならない。そうでなければ、責任の引き受けは単なるコンピューターによる自動的な演算と変わらない。ならば、ノンモラルを見据えることこそが責任論の出発点ではあるまいか。ノンモラルを言葉にすらできない者が、それを言葉にし、責任の引き受け、つまり引き受けることができないはずのものを引き受けるところにまで至ること。加藤の議論の中に現れる「我々」を思考停止ではなくて、「来るべき我々」についての思考として捉えるべきではないか。

 キムは現代韓国における日本の植民地主義批判の言説は、同時に、たとえば現代韓国における労働の問題といったアクチュアルな問題につながっていかなければいけないという重要な指摘を残した。私はこの路線で「敗戦後論」を読み替えるべきだと考えている。加藤が指摘したのは、或る意味では、現代の我々と戦前の日本との連続性の欠如である。これは重要な指摘である。しかし加藤は自国の死者を何よりもまず哀悼することによってその連続性が作り出せると考えた。私はそうは考えない。私が参考にしているのは、大澤真幸氏が加藤典洋の議論を批判的・発展的に引き受ける形で書いた『我々の死者と未来の他者──戦後日本人が失ったもの』(集英社インターナショナル新書、2024年)である。

 大澤氏の非常に息の長い議論を一言で紹介することは難しいが、氏が述べたのは、アクチュアルな問題に取り組むことによってこそ、我々は過去との連続性を作り出せるということである。これは大澤氏があげている例だが、もし日本が、政府としても、あるいは市民レベルでも、イスラエルによるガザ侵攻、そしてイスラエルの植民地主義的な行動とパレスチナ人への人種差別的弾圧を糾弾する態度をハッキリと示し、行動に出るならば、それは日本の戦時中の植民地主義や人種差別への反省と謝罪を表明することになるのではないだろうか。それは過去の加害行為、過去の誤りを認めつつ、その過去と現在の自分たちとの連続性を見いだすきっかけとなるのではないだろうか。

 哀悼において自国が先か他国が先かという問題設定は、どれほど重要であろうとも、やはりアクチュアルな問題への取り組みこそが過去との連続性を作り出すという論点を見にくくさせてしまうように思われる。私が当時、論争を眺めながらどうしても自分なりの考える進めるきっかけを得られなかったことの理由もわかった気がした。もちろん私は誤っているかもしれない。だが私は、誤りうる思想の中で、誤ったならばそれを素直に認めつつ、正直に思考を進めていかねばならない。この当たり前のことを私は再び心に誓った。30年前の経験に決着を付けられたわけでは毛頭ないが、これがこのシンポジウムでの私の、私にとっては貴重な成果である。

 

報告者:國分功一郎