101号館映像制作プロジェクトの第7回ワークショップが3月12日(金)16時より、Zoomを用いて開催された。
石井剛氏(EAA副院長)、WSのコーディネーター髙山花子氏(EAA特任助教)をはじめ担当RAの小手川将氏(EAAリサーチ・アシスタント)、高原智史氏(EAAリサーチ・アシスタント)、そして報告者の日隈(EAAリサーチ・アシスタント)にくわえてアドバイザーの田村隆氏(東京大学)、星野太氏(早稲田大学)、崎濱紗奈氏(EAA特任研究員)、また、映像制作に関するアドバイザーとして入江拓也氏(SETENV)が参加者に名を連ねた。
まず高原氏より、中国人留学生を交えた旧制一高の茶話会・支那留学生茶話会の記録(1930)、旧制一高の校長を務めた森巻吉(1877-1939)が読んだ入学生式辞(1935)などの資料紹介が行われた。森は、一高が本郷から駒場に移転した1935年を挟んで、1929年から1937年まで校長として在任、この間、1932年には特設高等科が設置されている。一高の寄宿寮記録に残された茶話会の記録からは、一高生として、あるいは寮生として、留学生が「一高的なるもの」の下で分け隔てなく接せられていた事実が浮かび上がってくる。しかし、そうした「一高的なるもの」は、その概念としての空虚さこそが問題にされ得るという指摘が高原氏自身によりなされ、また石井氏からは、そうした空虚な概念が関与的に作られるものだとして、留学生はどのようなポジションから関与できたのか、という疑問が呈された。この問いは、本プロジェクトにとって根本的な問いであろう。
小手川氏からは、1935年に映画化され一高生の顰蹙を買ったという中野実の戯曲『乾杯・学生諸君!』の内容に関して発表があった。戯曲自体は滑稽みを抑えたものだったというが、現存しない映画版がどのように一高生を描いていたのかについて、想像がふくらむ。
また、プロジェクトの方向性を考える素材として髙山氏や石井氏からは、1930年代を中心に日本と中国、朝鮮半島の関係を考えさせるような人々の名前が挙げられた。一高の予科に学び後に九州帝国大学医学部に入学、文学者・歴史学者として知られるようになる郭沫若(1892-1978)、朝鮮半島が日本の統治下にあった1936年のベルリンオリンピック・マラソンで金メダルを取った孫基禎(1912-2002)などである。「現在的な視点から判断を下すのではなく、当時の生態系を踏まえた上で、この時代のことを考えることが必要」との石井氏からの助言は、一高における中国人留学生という特殊な立場の人々の視点を「偸まない」ためにも不可欠な視角だと思われる。
最後に、田村氏からは、映像化にあたって一高と101号館をどう描き分けるかというお題が出され、入江氏からは、最近ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞した東大出身の映画監督・濱口竜介氏の作品に触れつつ、映像における「ことば」の機能と重要性について示唆を受けた。
「企画として離陸したのではないか」(星野氏)との言もあったように、今後は担当RAの映像化に向けた準備を中心としながら、まずは4月上旬にも撮影スタッフとの会合を設けるなど、具体的な作業にも進んでいきそうだ。コロナ禍の収束が未だ見通せないながらも、今後の報告を期待されたい。
報告者:日隈脩一郎(EAAリサーチ・アシスタント)