2023年12月22日(金)、東京大学駒場Iキャンパス18号館1階メディアラボ2にて、EAAトークシリーズ「アートを通じて空気をする」の第4回「気密をつくる」が開催された。同セッションでは、美術家の大岩雄典氏と美学者の星野太氏にご登壇頂いた。
大岩氏は、空間や言葉などを題材にしたインスタレーションを展開されるとともに、インスタレーションそのものに係る研究、キュレーション、さらには話芸やホラーに係る執筆活動などに取り組まれている。星野氏は、美学および表象文化論がご専門で、本学大学院総合文化研究科にて教鞭を執られている。近著に『食客論』(2023)、『崇高のリミナリティ』(2022)、『美学のプラクティス』(2021)などがある。
本セッションの構成は、トークシリーズの企画段階において想定していたものに最も近かったと感じている。まず、ゲスト・スピーカーである大岩氏にご講演を頂いた。ご自身の制作活動に触れて頂きながら、インスタレーションというアートの形態を巡る近年のご関心についてお話を頂いた。適宜星野氏にコメントを入れて頂くとともに、大岩氏がそれらに応答していくかたちで進められた。そのような大岩氏と星野氏のやりとりは、そのまま両氏による刺激的なディスカッションへと発展していった。
ご講演の中でご紹介頂いた大岩氏の近作の数々は、いずれも新型コロナウイルス感染症という未曾有の事態が同氏に抱かせた疑問の上に立脚している。外出自粛やいわゆる三密回避への要請は、インスタレーションというアートの形態が極めて空間ありきであることを私たちに(再)認識させた。インスタレーションという形態自体が箱(美術館)や制度からの解放というその根源的意義から独り歩きしてしまい、私たちはそれが本来的に空間依存的(site specific)であることをかなりぼんやりとしか考えていなかったのかもしれない。空間の存在があまりにも所与であり過ぎたとも言えるであろう。星野氏が指摘するように、インスタレーションという名の空間のゾーンニングが作家性を増すほど、それはある種の暴力性を伴うことになる。その点について私たちはどこまで自覚的であったか。
空間はいかに操作されるのか?あるいは、何によって操作されているのか?大岩氏はアメリカの美術批評家マイケル・フリード(1939–)の「気密」概念を紐解きながら、これらの問いに少しずつ答えを出そうとしている。質疑応答の中でEAAの石井院長も言及されたことであるが、フリードが言う「気密」が原文においてairtightではなくhermeticである点は肝心である。大岩氏によれば、フリードの気密概念は、必ずしも物理的な密閉性や遮蔽性を意味するのではない。それは、何かが入り込まない、あるいは何かが通っていない性質を捉えるものとして理解される。
そのような質的状態は空間的になるかもしれないが、むしろ状況的であり、精神的でもある。例えば、目線が合わない状態や何かに没入している状態もまた、フリードに言わせれば気密なのである。斯様にして、都市が肥大化し、SNS等が発達して「見る=見られる」の構造が社会を埋め尽くしていったとしても、私たちはひっそりと異世界を創り出すことができる。心の中に秘めていることが悟られることはあっても、直接的に誰かに見られることはない。それは、気密であり、奇遇にも日本語で言うところの「機密」でもある。フリードは、それこそが神聖なもの、詰まるところ芸術的なものとして捉えているようだ。
芸術家としての大岩氏は、このようなフリードの気密概念を踏まえ、気密な世界を自分で閉じたり開いたりできるような状態を生み出すことにインスタレーション・アートの方向性を見出している。しかし、それは直接的な空間操作の話ではない。大岩氏のご講演の背後には、2つの核となる概念が通底していたように見える。
1つは、エージェンシー(agency)である。それは、人に何かをさせるモノやコト(のとりわけ質感)、あるいはそのような人とモノやコトとの連関を指す。但し、大岩氏が関心を寄せているのは、エージェンシーの存在が曖昧な状態である。例えば、コント漫才を盛り込んだ映像インスタレーション《バカンス》(2020)の制作にまつわるこぼれ話は大変興味深い。大岩氏が同作に出演したお笑い芸人の方々に伺ったところによれば、何が(どんなエージェンシーが)アドリブのボケを頭の中に思い浮かばせるのかよくわからないらしい。そう、彼らの頭の中には気密が創られるのだ。そして、どうしても言いたい、言わなくてはならないという気分になるらしい。そう、機密だ。頭の中にアドリブのボケが浮かんだ時点で、それはまだ誰にも知られていない秘め事だ。そのような隠し事ほど誰かに言いたくなるのが人間の性なのだ。
《口ずさまないように》(2020)が鑑賞者の内面に引き起こす作用もまた面白い。鑑賞者は大岩氏によって作成されたメロディが存在しない歌詞を口ずさむことなく読むよう促される。すると、不思議なことに鑑賞者は各々頭の中に独自のメロディを思い浮かべるようになる。私がこの作品の鑑賞者だとしたら、何か替え歌のようなものが頭の中に立ち上がってくるに違いない。この場合、大岩氏によって作られた歌詞がエージェンシーと言えなくもないが、どこかで聞いたと思われるそのメロディーがなぜこのタイミングで再生されるのかを説明することはできない。日常的な出来事として、突如として特定の曲が頭の中に鳴り出して、しばらく頭から離れないというのは誰にでもある経験ではないだろうか。
大岩氏の構想を理解する上でもう1つの重要になりそうなのは、概念としての感染である。十和田市現代美術館で開催された同氏の個展《渦中のP》(2022)は、鑑賞者の回遊を引き出す散文詩で埋め尽くされている。それらは鑑賞者に対するある種の指示書として機能しているのであるが、和文とともに併記された英文の散文詩は全ての句が頭文字Pからはじまる。同個展で大岩氏が証明しようとしたのは、「頭文字にPの付くもの探し」が鑑賞を終えても各々継続していくであろうという仮説である。Parking(駐車場)、Playground(遊び場)、Platform(駅のホーム)など。ゲームのルール、ギャグ、ダジャレなどは、生活に必要なものでもなければ誰かに強いられたわけでもないのに、編み出した本人の手を離れて勝手に広まっていく。大岩氏はこのような意味での感染という現象に着目している。
何かのやり方を知っているということ自体が気密を生み出すこともある。その例として、祭りや神社に祀られているご神体の継承などが挙げられるであろう。ゲームのルール、ギャグ、ダジャレなどを含め、それらは全て一般的なインスタレーションとは性質が大きく異なる。星野氏も指摘したように、それらはインスタレーションに取り組むアーティストという生身の人間よりも寿命が長い。インスタレーションは1回きりの展示であるため、それらは仕様書のかたちで保存される。しかし、何年か経つと特定の設備やソフトウェア等が入手困難になり、どんどん再現することが難しくなっていく。最終的には生みの親であるアーティスト本人に聞くしかない。インスタレーションという形態のアートは、空間のみならず、アーティストの生にもまた潜在的に依存しているのである。
もし、大岩氏がエージェンシーの特定が曖昧で感染しやすい永続的なインスタレーションを目指されているとすれば、それは他者性なしに成立しないように見える。しかも、ここで言う他者(性)とは、自己の外側にいる存在としての他者のみならず、鑑賞者の内側に入り込んでくる他者を含む。ボケを引き出す相方のツッコミ、どこかで聞いたかもしれない誰かが作ったメロディなど。それらがある種の情動を引き起こし、私たちの内側に気密/機密を生み出す。それは理屈ではない。人間とはそもそも合理的ではないのだ。
気密/機密な世界を自分(おそらくは鑑賞者自身)で閉じたり開いたりできるような状態を生み出すインスタレーションとは一体どのようなものなのであろうか?それは「結果として」いかなる空間(空気)を生み出すのであろうか?大岩氏のさらなるご活躍に目が離せない。
今度こそ余裕を持って本番に臨めるようにしようということで、再び18号館共通事務室の木村嘉陽氏と青山恵氏にはオンライン配信システムの構築並びに設営で多大なるご協力を頂いた。直前まで本郷キャンパスで授業があったにもかかわらず、林子微氏には写真撮影担当として完璧なお仕事をして頂いた。本セッションにご協力頂いたEAAスタッフは勿論のこと、皆様のご協力に記して御礼申し上げる。
報告:野澤俊太郎(EAA特任准教授)
写真:林子微(EAAリサーチ・アシスタント)