2023年11月6日(月)、東京大学八重洲アカデミックコモンズにて、EAAトークシリーズ「アートを通じて空気をする」の第2回「空気は生きているのか?」が開催された。同セッションでは、バイオアート分野でご活躍されているAKI INOMATA氏と岩崎秀雄氏にご登壇頂いた。岩崎氏は、生命を巡る科学、思想、芸術の統合的実践並びに研究のためのプラットフォームmetaPhorestを主宰されている。細胞生物学者かつアーティストとして、生命美学をコンセプトにしたアート制作を展開されている。INOMATA氏は、metaPhorestに出入りするアーティストのお一人である。人間と人間以外の生きもの、あるいは人間と自然との関係について、私たちの認識を揺るがすような作品を発表されている。
同セッションは、INOMATA氏による現在進行中のプロジェクト《昨日の空を思い出す》(2022–)の紹介からはじまった。続いて、生命進化におけるシアノバクテリアの役割、《Cyanobacterial BONSAI project》(2008–2013)、空気(大気)の生物学的定義に係る試みについて岩崎氏よりご講演を頂いた。INOMATA氏と岩崎氏による個々のご発表は相互にコメントしあうかたちで進められ、その流れがほとんど途切れることなく「空気は生きているのか?」という問いを巡るディスカッションへと展開していった。
《昨日の空を思い出す》と《Cyanobacterial BONSAI project》は、異なるアーティストによる、全く異なる創造力の産物であるが、どういうわけか私には非常に似たプロジェクトのように見えた。その第一印象は、おそらく両プロジェクトともガラス容器の中のインスタレーションであるという点からきたのではないかと思う。
INOMATA氏の《昨日の空を思い出す》は、繰り返されることのない空模様を撮影し続け、それらをグラスの中で三次元的に再現する試みである。グラスに満たされた透明な液体の中に3Dプリンターで粘力と浮力のある白い液体を注入し、次々とこれまでに見た雲のかたちを成形していく。グラスの中に再現された昨日の空は、全て飲むことができる素材で出来ている。
他方、岩崎氏の《Cyanobacterial BONSAI project》はシャーレの上で展開される。酸素発生型光合成を行なうシアノバクテリアに内在する自律的な挙動を引き出し、それらの細胞から様々な形状を作りだす生物学的実験かつインスタレーションである。
率直に言うと、岩崎氏の登壇が決まるまで、私はシアノバクテリアとは一体何者なのか、全くわかっていなかった。それは、細胞を持つ細菌類で、生物学的には立派な生物らしい。確かに、《Cyanobacterial BONSAI project》によって引き出されるシアノバクテリアの自律的かつ自己完結的に見える振る舞いは、私たちに「生物らしさ」あるいは「生命らしさ」を看取させる。少し別の見方をすると、私たちは暗黙のうちに、自律性や自己完結性を帯びたものこそが生物であると捉える文化的価値観を内在化している。
それこそが《Cyanobacterial BONSAI project》に織り込まれたメッセージの1つなのであるが、同プロジェクトと《昨日の空を思い出す》との対比は、私に不思議な混乱を経験させた。《昨日の空を思い出す》で再現される昨日の雲もまた、私にそれらの動きを「生物らしさ」に例えさせようとするのである。些か屁理屈のように聞こえるかもしれないが、グラスを揺らしたり傾けたりしてみると、昨日の雲がまるで海中を浮かぶクラゲのようにゆらゆらと動き出すではないか。
同様に空気について考えてみるとどうであろうか?生物学的にも、また私たちに内在する文化的価値観と照らし合わせても、大気や本物の雲を生物と認めることはないであろう。しかし、岩崎氏が指摘するように、それらをメタファーとして生物のごとく振る舞うものとして捉えることはできる。自然現象としての雲から受ける印象とINOMATA氏の作品、つまり3Dプリンターで高度に作り込まれた雲から受ける印象が奇妙にも一致する。
このような「生物らしい」といった感覚は、生物(あるいは生命)と物質という二項対立の上で成立しているように思われる。ここで、空気と人間の関係に目を向けてみるならば、私たちは自律的かつ自己完結的な挙動を示すものとしての絶対的生物という概念を揺るがしかねない大事件を経験したばかりであることに気づく。新型コロナウイルス感染症である。
恥を忍んで白状すると、私はシアノバクテリアに限らず、細菌類とウイルスの違いについてもかなり曖昧な知識しか持ち合わせていなかった。だから、本セッションに先立ち、密かに理化学研究所生命医科学研究センターのウェブサイトを訪れていた。それによれば、細菌類は自己増殖する生物であるのに対し、ウイルスは生物と非生物の中間らしい。私は未だに「中間」とはどういうことなのか正直理解できていないが、そのような生物の細胞に依存することではじめて増殖する中間という存在がとてつもなく強力であることは確かだ。何しろ、新型コロナウイルスの空気感染リスクは長期にわたり人間を自らの(再)生産活動から遠ざけたのである。
岩崎氏は、本セッションで新型コロナウイルス感染症の話題こそ挙げなかったが、あくまで1つの問題提起として、人間こそ空気や大気を宿主とするウイルス的存在との見方を示された。それは、ウイルスのように生物学的な生物ではないにせよ、雲や音楽のような生物学的生命性の指標では捉えられない生き生きとしたものをどう理解するか、という議論の結果として提示された逆転の発想である。そこには、生物のまわりに無生物(物質)が広がっているという認識構造の限界が垣間見える。人間が「生きている」のではない。人間というウイルスが空気や大気によって「生かされて」いるのだ。
岩崎氏が提示された空気を宿主にするウイルス的人間という考え方は、シアノバクテリアや細菌類とウイルスの厳密な違いなどよくわからなかった私にでもすんなりと理解できてしまう。否、腑に落ちたといった方がより適切かもしれない。人間というウイルスは、近代科学やテクノロジーという道具を手にして、他のウイルス的存在を猛烈に抑え込んできた。その結果、拡大する自らの挙動がとうとう宿主の状態に影響を与え出したのだ。人新世の到来である。新型コロナウイルスに苦しめられた人間自身の姿がそれを映し出している。
再びINOMATA氏の《昨日の空を思い出す》を見てみよう。この作品では、3Dプリンターで雲を人為的に作っている。同様に、人新世と呼ばれる今日において、人間の活動がこの瞬間に「過去の空」あるいは「昨日の空」となっていく大気の状態を作っていないとはもはや言い切れない。人間は本当にグラスの中に浮かぶ雲を眺めるような体験をしていないであろうか?そんなことはない。人工衛星や高度なレーダー等を用いて、世界中の気象を俯瞰的な視点で眺めているではないか。ウイルス的人間は、いまや宿主である空気や大気を文字通り「飲み込む」存在になっている!
INOMATA氏の《昨日の空を思い出す》が私たちに思い起こさせる「生物らしさ」の正体が、このようなウイルス的人間と空気(大気)の関係性の動的帰結であるとするならば、そもそも生き物が生きるとはどういうことなのであろうか?
本セッションは、バイオアートについてご研究されている文化人類学者の塚本隆大氏によるご尽力なしには成し得なかった。本学のサテライトオフィスである八重洲アカデミックコモンズでの開催が実現できたのは、偏に産学協創部の菅哲郎氏のお陰である。本セッションにご協力頂いたEAAスタッフは勿論のこと、皆様方のご協力に記して御礼申し上げる。
報告:野澤俊太郎(EAA特任准教授)
写真:林子微(EAAリサーチ・アシスタント)