2023年10月26日(木)、駒場IIキャンパスS棟プレゼンテーションルームにて、EAAトークシリーズ「アートを通じて空気をする」の第1回「たゆたう肌の上の空気」が開催された。同シリーズでは、毎回アーティスト、美術批評家、キュレーター等の方々を2名ずつお招きすることになっている。第1回セッションでは、主に映像制作に取り組まれているアーティストの百瀬文氏と文化研究者である山本浩貴氏にご登壇頂いた。
まず、百瀬氏の映像作品《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》(2013年)を上映した後、百瀬氏に映像という媒体が持つ可能性やセクシュアリティ等を巡るご関心についてお話を頂いた。本セッションの後半では、百瀬氏と山本氏にご対談頂き、山本氏が百瀬氏に問いかけるかたちで、百瀬氏の映像作品に織り込まれた(雰囲気を含む)空気へのアプローチを試みてもらった。
《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》(以下《木下さん》とする)には、その作品名の通り、木下知威(ともたけ)氏という聾者の方が登場する。木下氏と百瀬氏が手話を使うことなく会話をしている。同作品の上映が決まったとき、私はその程度の情報しか持っていなかった。本番での鑑賞を楽しみにしていたので、同作品について事前に多くのことを調べるようなことはあえてしなかった。
そして、同作品と空気の関係について、私はちょっとした仮説を持って本番に臨んだ。リアルな空間にいる人間の声は、空気を介して他者に伝わる。これは、あくまで耳の聞こえる者同士のコミュニケーションを前提としたときの話である。木下氏が読話で百瀬氏と会話をしているとなれば、両者の間に声を伝える媒体としての空気は機能上存在していないことになる。この辺りから、本セッションの議論が出発するのではないか。
仮説は見事に打ち崩された。
ディスカッションにおいて山本氏が整理されたように、百瀬氏の作品の多くは、身体(性)に着目しながら、当たり前と思われているモノの見方に揺さぶりをかけようとする同氏の戦略的態度を具現化している。実際、《木下さん》は、私に声(あるいは単に音)を媒介する物質としての空気について短絡的に思考することを完全に諦めさせた。そして、むしろ読話を含む会話をする人間の身体、ひいては「たゆたう肌の上の空気」へと目を向けさせた。
誰しもが薄々気づいていたことではあるが、リアルな空間での声による会話は、声以外の要素があってはじめて総合的な会話として成り立っている。コロナ禍になってマスクの着用を余儀なくされるようになり、この点を実感されたという方は案外多いのではないだろうか。誰しもがリアルな空間で会話をするとき、相手の表情、口元の動き、身振り、手振り、さらには立ち姿や話される内容を暗示しているかもしれない身なりといったものを統合的に捉えながら会話の内容を理解しようとしている。それらの要素が—空気ではなく—雰囲気としての「空気感」を生み出していると言うことができるであろう。木下氏のような聾者は、そのような「空気感」を読み取って、相手の話していることを環境的に理解している。
《木下さん》における木下氏と百瀬氏の会話は、木下氏のような聾者にとって、空気を伝う声が会話の中の欠けたピースであるという事実をリアルに浮かび上がらせている。それでも、木下氏が百瀬氏と会話を続けられるのは、会話を成り立たせている様々な要素によって立ち上がる「空気感」を読み取って、空気を伝う声—あるいは、声の空間と言ってもよいかもしれないが—という欠けたピースについて想像力を働かせているからである。
歴史上、「空気感」から何かを媒介する空気について想像力を働かせていたのは、何も聾者だけではなかったはずだ。「空気感」から何かを媒介する空気について体系的に想像力を働かせていった結果、それはやがて近代科学へと到達した。そして、認識上空気は、それら自身に内在する要素や挙動などから説明可能なエージェントとしてより自己完結性を強めることになった。詰まるところ、空気から「空気感」が引き剥がされた。
そのような近代科学から見たとき、身体と空気の関係は逆説的にどのように捉え得るのであろうか?今日台頭するデジタル技術は、空気と「空気感」の関係をどのように変え、あるいは実のところ再構築しているのであろうか?この辺りの議論は、第2回セッション(バイオアート)および第3回セッション(電子音楽)の内容と大いに関係してきそうである。引き続き、現代アートを通じて空気の本質に迫っていきたい。
今回、《木下さん》を上映するにあたり、(お恥ずかしながら)急遽手話通訳と文字通訳を手配することになった。オンライン配信に向けて、殊に映像作品の繊細さをお伝えするために様々な準備をしなければならない中、短期間で情報保障の体制を(しかも初めて)構築することは確かに一大事であった。しかし、それまでNHKの手話ニュースくらいしか知らなかった私にとって、それはとてつもない学びのプロセスであったということを強調しておかなければならない。準備に忙殺され過ぎて全く気づいていなかったのだが、そのプロセスを経たからこそ、本セッションがはじまった時にはすでに《木下さん》を観る目がいくばくかは養われていたのではないかと今頃になって感じるのである。
本セッションは、駒場Iキャンパス18号館共通事務室、バリアフリー支援室、生産技術研究所総務課総務チーム、手話通訳の背後に設置するグリーンスクリーンを貸して頂いた熊谷晋一郎研究室のご協力なしには成し得なかった。急な依頼にもかかわらず、原恵美氏と佐藤晴香氏には手話通訳業務を、牧田美優氏と小野寺海斗氏には文字通訳(UDトーク)修正業務をお引き受け頂いた。記して御礼申し上げる。
また、先月EAAから京都大学に移られた丁乙氏が、本トークシリーズが気になって仕方がないということで、オンラインでご参加頂いたばかりか、わざわざメールで感想を送って頂いた。このブログを執筆するにあたり、同氏のコメントによって気づかされた部分があったこともまた、ここに言及しておきたい。
EAAスタッフ(特にIT担当の金子亮大氏)は勿論のこと、本セッションにご協力頂いた皆様方の完璧かつ心暖かいお仕事に深謝する。
報告:野澤俊太郎(EAA特任准教授)
写真:王宏斌(総合文化研究科表象文化論コース博士課程)