2024年10月24日(木)、東京大学八重洲アカデミックコモンズにて、EAAトークシリーズ「空気のデザイン—共に変容する」の第5回セッションが開催された。同トークシリーズは、サステナブルな未来の空気をデザインすることによってもたらされる社会並びに人間の心身の変容について、様々な業界・分野の実務者と研究者が一緒になって考える機会を創出することが意図されている。
第5回セッション「水と空気の故郷・森林を守る」では、「サントリー天然水の森」プロジェクトを主導されているサントリーホールディングス株式会社の山田健(やまだたけし)氏と消費主義社会における食や味覚等について研究をされている文化史・感覚史研究者の久野愛氏をお招きした。
本セッションでは、まず山田氏より、「サントリー天然水の森」プロジェクトを中心とするご自身の取り組みについてお話しを頂いた。同プロジェクトは、森林再生を通じた良質な水の維持・涵養をその根源的な目的としている。それは、サントリーホールディングスによるボランティアやCSRといった類の活動としてではなく、同社の根幹をなす歴としたビジネスの一環として行われている。
森林再生をビジネスとみなす発想は、サントリーのユニークな企業文化と(実のところ)コピーライターである山田氏の未来構想力が融合して同社に定着しているように見える。山田氏は、天然資源に一方的に依存しているようなビジネスは持続的とは言えず、そのような依存状態から早々に脱却しなければならないと警鐘を鳴らす。それは水資源あっての同社の事業にとっても決して他人事ではない。良質な水の持続的な取水が飲料メーカーの事業にとって不可欠である以上、単に森林への負荷を減らすだけではなく、森林全体を再生して良質な水を積極的に生み出していかなければならない。そのような発想のもと、日本全国の森林でサントリーの工場で汲み上げられている地下水量の2倍の水を涵養すべく、2000年頃に山田氏が主導して「サントリー天然水の森」プロジェクトが立ち上がることになった。現在では、16都府県26ヶ所12,000 haの森林において、良質な水を育むための様々な試みが展開されている。
人間にとって「よい」水が森林の中で生み出されることは、同時に多様な動植物や菌類等が森林の中で育まれることを意味する。山田氏のご講演は土の中の世界にまで及んだ。森林が多様性に満ちていると、土壌を定着させている植物の根もまた多様である。枯れた根のような有機物は、ミミズによって食べられ、糞として排泄されることにより、微生物が分解しやすい状態になる。団子のようなかたちをしているミミズの糞は、土壌の保水性と透水性を高める。枯れた根そのものもまた、パイプのような構造をしており、地下水の通り道になっている。植物の多くは根の先にいる菌根菌(きんこんきん)という糸状菌と共生して水やミネラルを吸収しており、そのプロセス自体が地下水の生物学的な浄化装置として機能している。
無論、山田氏の言う「多様性に支えられた森」を生み出すためになすべきことは沢山あるが、本セッションではとりわけ人工林を混交林に転換するための取り組みやシカ対策についてご紹介頂いた。それらはいずれも、生物多様性に満ちたフカフカの柔らかい土壌を生み出すための方策なのである。サントリーにとって、生物多様性の維持・向上は、グローバルな約束事としての行動目標というよりも、むしろ人間、動植物、菌類の共生関係と同社の事業の双方を持続させるための手段であると理解することができる。
山田氏のご講演は、企業活動のうち、主として生産の部分に係る話題提供であった。これに続く久野氏の応答的なプレゼンテーションは、企業による生産と消費者の関係、あるいは消費者の感覚がそれらの関係に与える影響を浮かび上がらせるものであった。
文化史・感覚史研究者である久野氏のご講演は、19世紀末のアメリカの食卓を彩るバナナの色からはじまった。1870年代以降、鉄道や船による長距離の冷凍輸送が可能になり、バナナのような南国のフルーツがアメリカの一般家庭で食されるようになった。当初、黄色のバナナと赤色のバナナの2種類がアメリカに持ち込まれたが、程なくして赤色のバナナはアメリカの食卓から姿を消すことになる。赤色のバナナは皮が薄くて傷つきやすく、長距離輸送に適していないことが原因であった。それは、南国のプランテーションにおけるモノカルチャー化を促し、作物の病気、さらには農薬の問題へと発展していく。ここには労働力搾取の問題も介在している。
人間がある特定の味や香り、かたちや色をしたモノを求める行為は、それらを得るための諸資源の動員を伴う。今日の資本主義社会において、それはグローバルに、かつ甚大に展開され、地球の反対側から、はたまた土の中の奥深くにまで及ぶ。バナナの輸入を巡る歴史は、それを如実に物語っている。バナナと言えば黄色という感覚、あるいは黄色いバナナをバナナとして欲する消費者意識は、長距離輸送という食卓で起こっていることとはほとんど無関係な実情によってかたちづくられ、消費地からはるか遠い生産地の自然環境や労働環境に大きな影響を与えてきた。
そのような——時として権力的、あるいは暴力的に振る舞うことさえある——人間に帰属する感覚は、時間的および空間的コンテクストから切り離されるかたちでますます商品化されていると久野氏は指摘する。確かに、最後にラベンダーの花の匂いを嗅いだのがいつのことであったか全く思い出せずにいる私にとって、ラベンダーの香りとは、すなわちラベンダーの香りを謳った芳香剤なり柔軟剤の香りなのである!私たちは、しばしば商品のパッケージを支配する「自然」「天然」あるいは「ナチュラル」といった文言から、それらの商品の生産プロセスがどれだけ環境に優しいかを知ることはできない(昨年度開催されたトークシリーズ「アートを通じて空気をする」の第5回セッションの中で似たような議論が展開されたので、同セッションの報告記事を参照されたい)。久野氏は、このように人間とモノや土地を媒介する身体的メディアとしての感覚を無効化し、結果として「自然」を幾分客体化させている今日の消費主義社会を「エステティック資本主義」と称されていた。
直接的にではないにせよ、山田氏と久野氏によるご対談は、「エステティック資本主義」の議論に通じる問題意識を浮かび上がらせていたように思われる。例えば、日本全国における森林整備の事情に詳しい山田氏は、環境対策と称する施策において、往々にして一律の基準による対応が要求されている点を批判する。それぞれの森林には、独自の生態系があり、独自の植物と菌類の共生関係があり、はたまた独自の社会経済的問題がある。共通の目標に対する多様な対応策が認められないと、一律の対応策に合わせるための新たな環境負荷や資源の無駄遣いが生じてしまう。それは皮肉にも、久野氏にご解説頂いたようなバナナの輸入が引き起こした弊害と似たような帰結をもたらしかねないのである。
最後に、山田氏は、カーボンニュートラル達成や生物多様性の維持・向上といったグローバルかつユニバーサルな目標に対するより小さな、あるいはローカルなレベルでの対応こそ、企業が貢献できる領域ではないかと指摘された。比喩的な言い方をすれば、人間と非人間の関係のみならず、人間同士の関係(性)も含め、よりローカルなレベルにならないとそれら独自の「エコシステム」の姿が見えてこない。結局のところ、それらを織りなす諸関係を丁寧に読み解くようなことをしていかない限り、人間、動植物、菌類の共生関係とビジネスの双方を持続させる包括的な社会システムをデザインすることもできなければ、様々なインフラや制度間において見られる諸資源を巡る競合関係を少しでも解消していくためのアイディアを得ることもできないということであろう。
本セッションより、本学OCWの元職員でありアート制作に取り組まれている三野綾子氏にオンライン配信業務をご担当頂いている。三野氏の完璧なお仕事に心より感謝申し上げる。
報告:野澤俊太郎(EAA特任准教授)
写真:汪牧耘(EAA特任助教)