2024年6月12日(水)、東京大学八重洲アカデミックコモンズにて、EAAトークシリーズ「空気のデザイン—共に変容する」の第2回セッションが開催された。同トークシリーズは、サステナブルな未来の空気をデザインすることによってもたらされる社会並びに人間の心身の変容について、様々な業界・分野の実務者と研究者が一緒になって考える機会を創出することが意図されている。
第2回セッション「空気のブランドのデザイン」では、ダイキン工業株式会社のプロダクトデザイナーである関康一郎氏とバイオアート領域において制作並びに研究の両方に取り組まれている現代美術作家の齋藤帆奈氏をお招きした。
関氏は、これまでダイキン工業のヒット商品である「うるさら7」をはじめとする様々な商品のプロダクトデザインを手がけられ、近年では空気(空調機)が可能にする空間感動体験の創造や空調機とユーザーのコミュニケーションデザインのあり方に関心を持たれている。
まず、関氏より、ダイキン工業のブランド力向上という実務的な課題を踏まえ、空調メーカーが自らのブランドをデザインする上で実際どのようなことが考えられているかについてお話しを頂いた。関氏は、ダイキン工業の印象に係る市場調査の結果を引き合いに出しながら、同社製品の品質や技術力に対する消費者の高い評価がある一方で、相対的に同社が必ずしも親しみをもって認識されていない現状を示された。そこで、関氏は、人々の見えないところでコツコツと開発された技術的によい製品のデザインだけでなく、空調というシステム全体に付随するあらゆるユーザー体験のデザインのあり方を模索しているという。関氏のデザイン思考は、同社製品のプロモーション、空調機の取り付け、メンテナンス、更新時の処分など、あらゆる顧客接点の発生する状況に及んでいる。
関氏のご講演に続く齋藤氏の応答的プレゼンテーションは、同氏による野生の粘菌を用いたアート制作の解説を軸に展開された。齋藤氏の言葉をそのまま引用させて頂くと、同氏のアート制作は「アートという典型的な人間の活動を非人間(粘菌)に当てはめることで、現代における思考のフレームワークの批判的検討を行い、新たなフレームワーク」を創出することに主眼が置かれている。
例えば、粘菌を用いた作品《Eaten Colors》(2020–)では、真正粘菌の変形体に色素で染められた食べ物が与えられる。粘菌にはそれぞれ好みの色があるというのだ!粘菌は、好みの色に染められた食べ物を摂取し、自らの身体をその色で染めながら、空間上に広がっていく。その過程で、色のパターンが変化したり、同居しているカビや細菌などと反応したりする。齋藤氏曰く、このような方法で粘菌をクリアボックス内や白色のスニーカー上ではわせてみると、私たちの目には「見えない環境」が見えてくるというのだ。
齋藤氏にとって、粘菌を用いたアート制作と研究の間には同一性がある。非人間(粘菌)によって変化し続ける作品を制作することは、粘菌の性質を考察するために科学的な実験をすることとほとんど同義であると話す。そして、齋藤氏は、自らの存在を粘菌の内的ロジックを表現する翻訳者と捉えている。関氏のご講演に対する齋藤氏の応答はこの点に関係していた。
空気と粘菌は、人間と共にこの地球上に存在しているものの、オブジェクトとして明確に視覚できるものではない。この意味において、空気と粘菌はいずれも(少なくとも人間にとって)周辺的なものである。このような認識上背景化された空気という自然現象の性質を引き出し、フレーミングしながら空調のシステムをかたどるということは、粘菌を用いたアート制作とどこか似ているところがあるのではないか?
この問いかけに対する関氏のご発言は、第1回セッション「水と空気が交わるところ—これからの環境デザイン」における議論を呼び起こすこととなった。関氏は、ダイキン工業では「見えない空気を愛されるものにする」というデザインフィロソフィーを掲げてはいるものの、空気を自在に扱ってデザインするなんて絶対出来っこないし、おこがましいことのようにさえ感じると話す。関氏にそう思わせるのは、「みんなの共通財産」としての空気という認識である。関氏は、空気が「水と同じ」万人に共有される「インフラ」であるがゆえに、空気のデザインはやりがいがあって奥深いとインターンシップの学生さんたちに語っていると説明する。
関氏がおっしゃるところの「インフラ」は、実のところ株式会社クボタの岸野宏氏をゲスト・スピーカーとしてお招きした第1回セッションにおける重要なキーワードの1つであった。対談相手であった社会学者の福永真弓氏によれば、近代社会において水やエネルギーなどのインフラは不可視化の道を辿った。それらが可視化(あるいは前景化)される瞬間というのは、断水や停電といったようにそれらに問題が生じたときに限られる。空気はもともと不可視というややこしさはあるものの、テクノロジーを用いて汚染された大気や屋内空気のコントロールや調和が必要になって、認識上空気が不可視のインフラに「なった」と理解することができるであろう。
このような前回セッションの議論を期せずして踏襲しながら、関氏と齋藤氏のご対談はインフラを巡るアートとデザインの話題に及んだ。アートとデザインの違いとは何か?おそらく目的性の有無というのが1つの模範解答になるのであろうが、齋藤氏のご回答はそのような固定概念を見事に打ち壊してくれた。それは「壊れないとデザイン、壊れたらアート」である。齋藤氏によれば、関氏のようなデザイナーや技術者が自然現象とそれらを操作するテクノロジーの体系をインフラ化し、絶えず壊れないように、かつ人々に気づかせないようにしている。それに対し、現代アートは人々に何かを気づかせることをその根源的な目的とし、往々にして気づかせるべき何かを可視化(あるいは前景化)しようとしている。
他方、インフラの存在を懸命に覆い隠そうとしても、空調機や室外機のように隠しきれない存在が私たちの目の前に立ち現れるということもまた齋藤氏は指摘している。それらに自動車のような可視化の方向性を持ったデザインの余地が残されているがゆえに、関氏の仕事(デザイン)と齋藤氏の仕事(アート)が奇妙にもリンクしているのであろう。
では、空気をデザインするとは一体どういうことなのか?この議論を巡る関氏と齋藤氏の(少なくともデザイナーとアーティストとしての)お考えはほとんど一致していたように思われる。両氏とも、空気と粘菌に内在する特定の性質を再現するだけでなく、それらの過程においてプラスアルファの価値を見出すことに重きを置いているという。空調メーカーのプロダクトデザイナーである関氏にとって、プラスアルファの部分として想定し得るものこそ空調使用体験であり、ひいては個々人が快適な空気を体験することそのものなのだ。関氏はブランドという観点からこのようなプラスアルファの部分にアプローチしようとしている。
齋藤氏はプラスアルファの価値を見出すための概念上の手がかりとしてブルーノ・ラトゥールの言う「翻訳」のロジックを挙げられていたが、次回セッションでは翻訳研究に取り組まれている文学研究者の片岡真伊氏をお招きする。「翻訳」としての空気のデザインのあり方が次回セッションの1つのテーマになるかもしれない。
本セッションでは、いつもトークシリーズの準備および運営にご協力頂いている方々のみならず、総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程のラウ・シホ氏に受付業務等のお手伝いを頂いた。記して御礼申し上げる。
報告:野澤俊太郎(EAA特任准教授)
写真:高山将敬、豊嶋駿介(EAAスタッフ)