かつてイギリスの詩人アレギザンダー・ポープ(1688-1744)は、「すべての土地の守護神にたずねよ」(‘Consult the genius of the place in all’; 和訳はマーガレット・ドラブル著/奥原宇・丹羽隆子訳『風景のイギリス文学』による)と造園の心得を説いたが、「ゲニウス・ロキ」は18世紀以降、建物や庭が置かれる土地の性質を指すものとされてきた。その後、この概念は、鈴木博之(1945-2014)により「地霊」と訳され、「土地から引き出される霊感」「土地に結びついた連想性」「土地の可能性」(鈴木博之『日本の地霊』、1999年)を指すものとされ、土地が有する文化的・歴史的・社会的背景を読み解くための鍵概念として用いられるようになる。
なぜ、鈴木はこのような抽象的な概念に惹きつけられたのか。その背景を理解する一つの手がかりとなるのが、機能的な側面に重きを置きがちであった当時の建築学の傾向に警鐘を鳴らした、建築史・建築論を専門とするクリスチャン・ノベルク=シュルツの『ゲニウス・ロキ:建築の現象学をめざして』(Genius loci: paesaggio, ambiente, architettura, 1979; 和訳は1994年)である。同著でノベルク=シュルツは、科学的な検証をすり抜ける、場が有する「質的な全体性」(‘qualitative totalities’)を捉えるため、主観的経験の探索を重視する現象学に突破口を見出した。鈴木の『東京の地霊』『都市のかなしみ』や猪木武徳の『地霊を訪ねる:もうひとつの日本近代史』、John Dixon Hunt, Genius loci: an Essay on the Meanings of Placeを含む、地霊や場所性、土地の古層を探る試みにエッセイ的/民族誌的記述が多いのも、科学的検証には落とし込むことのできない、この「地霊」の性質が少なからず絡んでいるに違いない。
こうした「地霊」を論じるにあたり、文学作品が度々引き合いに出されてきたことにも明らかなように、「場所」は「文学」において重要な位置を占めてきた。だが、こうしたある場所から引き出される感覚が重要な役割を果たす文学は、どの言語・文化・時代にも見出される。ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』に描かれたロンドンや、ギュンター・グラスのダンツィヒ三部作(『ブリキの太鼓』『猫と鼠』『犬の年』)に記録された戦間期・第二次世界大戦下の自由都市ダンツィヒなど、少し考えを巡らせただけでも、その例は枚挙に暇がない。ならば日本近現代文学の場合、こうした場所から引き出される記憶や感覚、「地霊」の表し方には、どのような特徴があるのか。
以上の問いを出発点とし、本講では大岡昇平著『武蔵野夫人』、谷崎潤一郎著『細雪』、村上春樹の「螢」や『ノルウェイの森』、柳美里の『JR上野駅公園口』など、「地霊」あるいは土地に纏わる感覚が重要な役割を担う日本の小説のうち、英訳されているものの中から幾つかの事例を取り上げた。これらの文学作品において東京の地霊がどう表されてきたのかを、地理学・現象学・建築史・人類学などの「場所性」に関する言説を織り交ぜつつ紹介し、さらに、そのような表象により、翻訳の際、いかなる事態が生じ得るのかを検討することで、各作品における「地霊」表象の特徴を示した。こうした検討は、その様相が時代と共にどううつりかわってきたのか、またおそらくは、そこに投影されているであろう人々の各時代における「土地に対する感受性」を探索することにも繋がる。
この講義で共有した日本近現代文学を通じた「地霊」へ接近するための幾つかの方法が、本コースの受講者たちにとって、自身の土地/場所への感受性を高めるとともに、文学を通して「地霊」の諸相に踏み込み、土地と人との結びつきの変容を捉え、東京の地霊を再訪するための一助となることを願ってやまない。
報告:片岡真伊(国際日本文化研究センター准教授)