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2021.01.23

12/25-1/8 教養学部・全学自由研究ゼミ「人文-社会科学のアカデミックフィールドを体験する」セッション6

 2020年12月25日および2020年1月8日、全学自由研究ゼミ「人文−社会科学のアカデミックフィールドを体験する」の第6セッションが開講された(参考:第5セッションの報告 https://www.eaa.c.u-tokyo.ac.jp/blog/academicfields5/)。
 今回のセッション(Week1のレクチャーとWeek2のディスカッション)は「語り継ぐ/継承する」とのテーマで、川松あかり氏(総合文化研究科博士課程)がレクチャーを担当した。6つのアカデミックトピックについての全6回のセッションからなる本授業もこのセッションで最後である。
 川松氏は福岡県の筑豊旧産炭地エリアを舞台にフィールドワークを行ってきた、総合文化研究科の「文化人類学研究室」所属の民俗学者である。Week1のレクチャーでは、同じフィールド研究として混同されがちな文化人類学と民俗学の差異についての説明も交えながら、記憶を語り・語り継ぐこととそれに対するスタンスについて話してもらった。
 川松氏がこの分野の研究に入ったきっかけは、伝えたいことを伝えられない、「しゃべれない」自分について自問自答するなかで、「自分が話をできないとは相手のことを聞くことができないということではないか」との気付きへたどり着いたことであったという。「語り」を「聞く」ことを行う学問は民俗学に限らない。古文書や書簡のような「書かれたもの」を対象とするイメージの強い歴史学においても、オーラルヒストリーやその他のアプローチのもとで「聞く」ことが行われている。
 自己紹介に続いて、「語られたこと」への向き合い方として、3つのスタンスが紹介された。第一の立場は、語り手が語る言葉を、文字にされていない客観的事実として取り扱うスタンスである。古典的なオーラルヒストリーは主にこの立場に立つ。第二の立場は、語り手が語る物語を、語り手がみている(主観的な)現実としてとらえるスタンスである。これは構築主義的な言説分析がしばしばとる立場である。そして第三の立場が、川松氏が民俗学的な立場とするところの、語り手が語る出来事を受け止めようとするスタンスである。語り手から語られたことを、聞き手が「まさしくあったること」として受け取る第三の立場は、一見第二の立場と近く思える。しかしその本質は、語り手と聞き手がコミュニケーションしながら自省・自己変容をすすめることにある。

 異なる語り手が語る内容はしばしば相互に食い違っている。かつて小規模経営の炭田が川筋に展開してきた筑豊エリアの暮らしは、現在さまざまに語られる。そこは近代化のための栄光の場所であり、同時に人々がただ食いつなぐために集った場所である。そこは異なる背景の人々を受け入れる共同体であり、同時に人を囲い込んで外をはねつける共同体である。そこは温かに懐かしい生活の場であり、同時に映画『万引き家族』へ例えられるような地を這う暮らしの場である。前述の3スタンスへ見られるように、矛盾した語りや表象を切り分けて1つの筋を作ることも1つの選択である。だが、川松氏は筑豊で聞いた「私たちを研究対象として喋らないでください」、「体の中を一回くぐらせてから語ってください」との言葉に応え寄り添うことに自らの学問の存在意義を見出しているという。
 Week2は主観的な「心」へ着目することには危険さもあるのではないか、とのWeek1レクチャーに対するやや挑戦的な質問からはじめられた。集団で記憶を持ち寄ることは近年の「パブリック・ヒストリー」をめぐった議論にもつながるが、同時に集合的な反知性主義を生み出す危険とも紙一重である。語られた「心」から聞く自らをつねに見つめ返す学問として、民俗学的な学問の立場に意義があるのではないかとの応答があった。
 次いで、個人的な実感として聞き継いだことに共感を覚えられない、との意見から「聞く」ことをめぐる議論へと展開した。これに対しては語り手と完全に同じ意図・感情を聞き手が再現することは困難であって、むしろ「聞くこと」そのものが持つ意味と、「聞く」ことによって何かしらのリアクションを生み出す効果こそがより重要なのではないかとの意見が出された。(戦争・災害といった)過ちの繰り返し防ぐ知識を超えたものがあるのではないか、との議論も出された。
 また「忘れたい」と願う人々に対して「語り継ぐ」ことの意義をいかに説くのか、とのコメントが出された。これについてはセッション5で触れたような虐殺においてはしばしば語る人さえ残らず、仮に生き残る人があったとしても、その人々へ語らせることが時に暴力にすらなるとのリアクションがあった。一方で、たとえ沈黙を守ったとしても「沈黙せざるをえなかった」人々がいたことが記憶にとどめられるべきではないかともいう。関連して「語り継がなければならない」ことが不可侵のモラルとなり、「なぜ」を問わないまま「聞く」という行為を行うべきではないと指摘もなされた。
 受講生・ゲストともにまだまだ語りつくさない話題もあったものの、川松氏がWeek1のレクチャーで取り上げた記憶を語り・語り継ぐことから、今後の各自の思索へと広がりがあるようなディスカッションとなった。専門を異にする者が集まり、学問領域間の「ズレ」を楽しみつつ対話することを初回より目指してきたが、最終回のディスカッションは、まさしくそのようなものであった。

 撮影:長野聡史氏

 今回をもって全授業を締めくくるにあたって、講師役・ゲスト・受講生がそれぞれ簡単な感想を述べた。1セメスターにわたる本授業は、受講生にとってはゼミ形式で自由に発言し議論をリードする経験に、博士課程・ポスドクのゲストにとっては60分の講義設計をする機会に、そして講師役2人にとっては演習形式の授業をスーパーバイザーとしての立場から見つめる経験となった。改めて各方面のみなさま方に御礼を申し上げたい。
 本学は、1~2年次の前期課程において横断的な科目を履修して学び、3~4年次からは後期課程で各学部・専攻に応じたカリキュラムのもとに学ぶことを特色としている。受講生のみなさんが、演習(ゼミ)形式の授業において議論を整理・調整する(ファシリテーション)経験、論の飛び交う中に飛び込んでやり取りを行う経験、自身の考える意見を安全かつ自由に展開する楽しさの経験、といった本授業での「フィールド」体験を後期課程での学びに活用していってくれることを願っている。

報告者:前野清太朗(EAA特任助教)、中村長史(教養教育高度化機構アクティブラーニング部門特任助教)