11/27(金)と12/4(金)にかけて、全学自由研究ゼミ「人文−社会科学のアカデミックフィールドを体験する」の第4セッションが開講された(参考:第3セッションの報告)。
今回のセッションは「ポスト植民地主義」というテーマで、本ブログの報告者である崎濱紗奈(EAA特任研究員)が担当した。報告者は自身の研究において、「沖縄近現代思想史」というフィールドに足場を置きつつ、帝国主義/植民地主義という文脈において長年議論されてきた「主体」概念について考察を行なってきた。
Week1の講義では、インドやアフリカを震源地として展開されてきたポスト・コロニアリズムの諸理論を参照しつつ、大日本帝国の成立という具体例に則して次のように論じた。「日本」という「主体」は、決して「日本」それ自体として、自律的に成り立っているわけではない。人類学や言語学といった近代的学知を総動員し、観察・記述するという行為の只中において、「アイヌ」「沖縄」といった内なる・境界線上の「他者」、そして「朝鮮」「生蕃」「満蒙」といった周縁の「他者」が創出される。本来境界線が曖昧なところに線を引き、そこから逆照射される自己像が「日本」として中心化・主体化される。その上で、「中心」の内部に「他者」を(排除しながら)再包摂するというプロセスこそが、帝国主義/植民地主義である。植民地支配においてしばしば採用されてきた「同化主義」という方法は、こうしたプロセスの上に成り立つものである。一方、「同化主義」への批判として提起された「多文化主義」は、それぞれの「個性」を重視するという意味において一見リベラルな発想のようである。しかしそれはその実、帝国によって創出された「主体」を前提としており、さらには、それらを包摂する「寛容な帝国」というイメージの演出に寄与するという限界を持つ。加えて、帝国主義/植民地主義による「主体」の創出とその活用は、資本主義の展開と密接な関係性を持つことも確認された。
伊江島にて。2014年報告者撮影。
「主体」はこのように、帝国によって創出されたという来歴を持つが、他方で、抵抗のための足場として活用されてきたという側面も持つ。例えば、脱植民地化を実現するために、多くの旧植民地では、ナショナリズムがその結集軸となった。Week2では、こうした「主体」の両義性を見据えつつ、しかし、抵抗のためであったとしても、その「主体」にもまた排除と包摂という問題がつきまとうというアポリアをめぐって、参加者の間で議論がなされた。また、参加者からは、現代日本において「日本」という「主体」は、どのように想像/創造・再構築されているかという問いも提示された。これに関連して、先の大戦をめぐる「記憶」の再構成・創出が、「主体」の問題と深く関わっているのではないか、という意見が挙げられた。参加者の出身国・地域が様々に異なっていることから、互いの経験を参照しあいつつ、有意義な議論が展開された。
4回のセッションを経て、参加者の間に、自由闊達にディスカッションを楽しむという共通感覚が生まれてきたように思う。本ゼミナールの主宰者である前野清太朗氏(EAA特任助教)と中村長史氏(総合文化研究科・教養学部附属教養教育高度化機構特任助教)は、誰もが自らの考えを自由に話し、そして、誰もが相手の発言にじっと耳を傾けるというSafetyな空間の重要性を、度々強調してきた。こうした空間を創出すること、そしてこうした空間に惹かれて人が集まるという運動の中にこそ、「書院」の意義がある。参加者ひとりひとりの力によって、本ゼミナールが紛れもなくその端緒となっていることを確信した、貴重なひとときだった。
報告者:崎濱紗奈(EAA特任研究員)