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2021.03.22

EAAオンラインシンポジウム「30年後の被災地」

 2021310日(水)、EAAオンラインシンポジウム「30年後の被災地」が開催された。高橋哲哉氏(総合文化研究科)による基調講演「3.11に何を問うのか——パンデミックのただ中で」および、「30年後の被災地」をテーマとした座談会の二部構成で会は進行した。座談会には高橋氏のほか、中島隆博氏(EAA院長)・石井剛氏(EAA副院長)・國分功一郎氏(総合文化研究科)・王欽氏(EAA特任講師)、そして本シンポジウムの企画者である張政遠氏(総合文化研究科)が登壇した。当初はオンラインと対面を組み合わせたハイブリッド方式での開催が予定されていたが、緊急事態宣言の延長に伴い、完全オンラインでの開催(Zoomウェビナー)となった。限られた告知期間だったにも関わらず、当日は80名を越える参加者にお集まり頂いた。

 張氏が指摘したように、国と東京電力は遅くとも「30年後」の2051年までに、福島第1原子力発電所の廃炉を済ませると表明しているが、廃炉への道は依然として険しい。また、「30年後の被災地」というとき、「被災地」とは一体どこなのか。自分は「被災地」について何を、どこまで知っているのか。そこに住み、暮らしている人々、あるいは「(強制/自主)避難」によってそこを離れざるを得なかった人々の苦渋を想像することが、どのように可能なのか。このように前置きした上で、高橋氏は、自身が生まれ育った福島——故郷であると同時に、現在は住んではいないという自身の位置(position)を確かめつつ——について、「4つの犠牲」に焦点を当て、議論を展開した。「4つの犠牲」とは、過酷事故による犠牲、原発内部での被爆労働による犠牲、ウランの採掘現場での犠牲、放射性廃棄物から生じる犠牲、である。

 「過酷事故による犠牲」を考える上で、数字上に現れた犠牲(避難を余儀なくされた人々の数、帰宅困難区域の面積)は言うまでもなく、「倫理的な傷」(渡部純「失われた宝を名づけること」『現代思想』20213月号特集=東日本大震災10年)にも目を向ける必要がある。例えば「避難」という事態には、強制的に「避難」させられた人たち、「避難」したくてもできなかった人たち、あるいは、苦渋の上に故郷を去る/残ることを選択した人たち、といった複雑な位相が幾つも含み込まれている。自身の生の根幹をなしてきた価値観・倫理が根底から崩れる中、究極的な選択を迫られ、引き裂かれる。こうして刻み込まれる「倫理的な傷」は、現在進行形で続いている。

 原発内部での労働者の犠牲という問題も深刻である。事故の収束作業のために、14000人という膨大な数の作業者が必要とされる。廃炉のためには、これを最低でもあと30年続けていく必要がある。高橋氏は、ある原発作業員の方の声を紹介した——「デモで廃炉、廃炉と掛け声がありますが、あれほど恐ろしいものはない」。ここには、現場で働く人の、反・脱原発運動に対する複雑な思いが込められている。実際の廃炉作業に関わる労働者は多くの場合、デモ行進に参加している人ではなく、様々な事情を抱えてそこへ辿り着かざるを得なかった「下層」の人々なのである。反原発・脱原発という理念を掲げ運動をすること自体が「悪」なのではない(むしろ、こうした理念を表明することは重要であろう)。しかし、その掛け声の先には、廃炉までの長い道のりと、構造的格差によって「プレカリアート(precariat: precarious+proletariat)」という位置に追い込まれた人々に負わされる犠牲が、確実に存在している。

 さらに、忘れられがちな問題として、ウランの採掘現場での被曝の犠牲がある。ウランはカナダ、オーストラリア、ニジェールといった国々の、多くは先住民の生活空間であったところで採掘される。こうした場所は同時に、廃棄物の投棄場所になっているところもある。例えばアメリカでは、南西部を中心としてウラン鉱山が開発されてきたが、先住民の生活空間を汚染し尽くしたのち「国家犠牲区域(national sacrifice zone)」と呼んで放棄してきた(参考:石山徳子『犠牲区域のアメリカ——核開発と先住民族』岩波書店、2020年)。双葉町・大熊町の中間貯蔵施設が、日本最初の本格的な国家犠牲区域となるのではないか、と高橋氏は懸念を示した。

 言うまでもなく、これは4つ目の犠牲、放射性廃棄物の犠牲に深く関わる問題である。いわゆる「核のゴミ」である高レベル放射性廃棄物は、深地層処分という方法で処理するしかない。しかし、廃棄物が無害化されるまでには10万年以上の途方もない時間がかかる。ここでは、世代間倫理という問題が極限的な形で問われている。高橋氏は具体例として、フィンランドの放射性廃棄物最終処分場「オンカロ」や、アメリカのニューメキシコ州カールズバット近郊にある核廃棄物隔離試験施設に言及した。10万年・100万年という途方もない時を超えたコミュニケーションの不/可能性は、哲学者ジャック・デリダが提起した問い——「発信者の意図が裏切られる可能性がなければコミュニケーションは成立しない」——と通底している。

 後半の座談会では、高橋氏の講演への質疑応答を交えつつ、多岐にわたる議論が展開された。とりわけ、座談会冒頭で繰り広げられた中島氏と高橋氏の「主権」をめぐる問題についてのスリリングな応酬は聴衆を惹きつけた。また、中島氏が提起した、社会的想像力の「工学化」という問題は、石井氏が指摘した「システム」への疑義や、國分氏が抉出した「責任」をめぐる三つの概念——責任(responsibility)・帰責性(imputability)・自己責任(at your own risk)——へとリンクしながら、今日の膠着した状況を出来させている要因を炙り出した。わたしたちは現在、神話化された「科学」のもと、あらゆる領域が工学的発想のもと設計・評価される巨大なシステムの中を生きている。この巨大なシステムを稼働させているのは、紛れもなく、わたしたち一人一人である。しかし同時にこのシステムは、わたしたち一人一人がそれに対してどのように関与しているのかを、非常に見えづらくする。また、王欽氏が的確に捉えたように、システムは、既存の政治制度を脅かすはずの偶然的なものを、制度を強化するものとして必然化する。3.11や、今回のCOVID-19は、果たして日本社会の現状(status quo)を一掃し得たのか。それとも、システムを長らえさせる「様々な意匠」を生み出しただけであろうか。もはやその全体像を捉えることが困難なほどの巨大なシステムの中で客体化されているわたしたちには、もはや為す術はないのだろうか。

 ここで改めて「主権」について考えてみたい。高橋氏はジャック・デリダの主権論に触れつつ、「主権」とは「主権なるもの」という静的・本質的な概念として捉えるべきものではないと述べた。「主権」とは、さまざまな力が絡み合う中で生じてくる現象のことであり、それを言語化することによって概念化されるものである。そうであるならば、システムを一時停止させ、切れ込みを刻み、これを変化させるためには、さまざまな力を結集させ、「主権」的なる現象を生じさせる必要がある。「主権」は、それが無いと思ってしまえば無いし、具体化させようとすればそこに現れるものであるのだ。(座談会で張氏や高橋氏、中島氏が繰り返し指摘したように、このことは、福島に限らず、沖縄、そして香港という問題系についても、同じく問われている。)

 したがって、もはや為す術はないのだろうか、という先の問いに対しては、さしあたって次のように答えることができるだろう。為す術はある、しかしそれは、「主権」的なる現象を生じさせようと意志し、欲するか、それ次第である、と。そのためには、どのような世界を欲するか、その想像力を鍛え上げることが不可欠である。もし大学に意味があるとすれば、それは、システムを効率的に稼働させるために分業化された学知を競うためではなく、このようにあれかし、と世界を欲するための想像力を、あの手この手で構想するために存在していると言うべきであろう。「学問」とは、このような行為に与えられた名前である。そのあり方を示してくださった登壇者の先生方、そして、長時間にもかかわらず忍耐強く耳を傾け、質問を投げかけてくださった参加者の皆さま全てに感謝申し上げたい。

報告者:崎濱紗奈(EAA特任研究員)