2025年3月6日(木)17時より東京大学駒場キャンパスI学際交流ホールにて、ダヴィッド・ラプジャード氏と宇野邦一氏の対談が行われた。絵画についての講義を皮切りとして、2023年秋より講義録の刊行がはじまるなか、どのようにあらためてドゥルーズを読むことができるのか、1970年代から1980年代にかけて、時期は違うが、実際の講義に参加していた二人に自由にお話をいただいた。通訳はロマリク・ジャネル氏(京都大学/国際哲学コレージュ)が、モデレイターは髙山がつとめた。
口火を切ったのは宇野氏であり、ドゥルーズの講義にかんして、実際に本に収録されたのは4分の1から5分の1であり、そうしたなか、最初に刊行された1981年の絵画についての講義では、セザンヌやクレーにもとづいて、色彩が芽吹くプロセス、哲学そのものが芽吹くプロセスが現れており、話すことや講演が大嫌いと公言していたドゥルーズにとって、講義は例外であったという点が確認された。そこから、講義がどのようなものであったのかが回想され、ラプジャード氏からは、哲学についての前提知識がない者に対してもわかるような形で講義がなされており、ドゥルーズにおいて「白痴」の形象が重要であった点が確認された。つづいて宇野氏から、ラプジャード氏が自身のドゥルーズ論において容赦なき論理学者としてドゥルーズを提示していることにかんして、ドゥルーズ自身は『アベセデール』においてヴィトゲンシュタインを哲学の暗殺者と呼んでいる点を踏まえると、論理学の特性をどう考えられるのかという論点が提示された。そこからラプジャード氏は、ドゥルーズによる17世紀哲学への傾倒、とりわけライプニッツとスピノザにおいては、理性主義とは異なる論理がそれでもなお作動しており、そのことをドゥルーズが執拗にたどっていた姿が振り返られた。それはドゥルーズ自身による構造主義批判の根底でもあり、プリミティヴなもの、狂気の側にそれでも論理と呼びうるものがある点への追求につながってゆく。ガタリによって「機械」の概念が導入されて以降の展開や、「シーニュ」をめぐる非言語領域にかんする思考の展開など、絵画、映画といった分節言語とは異なる対象への思考の展開、まるで異なるスピノザとライプニッツの思想が共存しうる奇跡など、話題は多岐にわたった。哲学史を十全に踏まえながらも、個別の哲学者の本質を生き生きと掴みとったドゥルーズの全体像を包括的に読み直し、あるいは聞き直すための絶好に機会になったように思う。
報告:髙山花子(EAA特任講師)
写真:林子微(EAAリサーチ・アシスタント)
