2025年3月4日(火)18時より東京大学駒場キャンパス学際交流ホールにて、ダヴィッド・ラプジャード氏講演会「器官なき身体と知覚」が開催された。ダヴィッド・ラプジャード氏(パリ第1大学)はプラグマティズム研究でキャリアをはじめた哲学者であると同時に、『無人島1953-1968』、『無人島1969-1974』、『狂人の二つの体制1975-1982』、『狂人の二つの体制1983-1995』、『ドゥルーズ 書簡とその他のテクスト』といったジル・ドゥルーズの没後刊行著作の編者として知られている。そして2023年から刊行されているドゥルーズの講義録の編集もまた彼がつとめているのだが、エチエンヌ・スーリオ論である『ちいさな生存の美学』やフィリップ・K・ディック論である『壊れゆく世界の哲学』といった彼自身の近著では、混迷をきわめる世界そのものについての考察が展開されている。
今回ラプジャード氏は、ドゥルーズ゠ガタリによって提出された「器官なき身体(Corps sans organes)」という概念を、ドゥルーズが一貫して強調していた「感覚する/感じる(sentir)」こと、そして「予感する(presentir)」ことから出発してたどることを提案し、欲望の殺到にもとづく分子的次元への移行と、既存の器官に頼ることのない新たな器官の創造が新たなオブジェの創造にも結びついてゆく過程を整理した。その上で、とりわけ2010年代に入って以降、耐え難いものを前にして生まれた世界的な蜂起の機運において、新たな集合的身体の創造、そして新たな器官の創造がうまくいっていない現況を指摘した。これは、今日における諸々の凄まじく耐えがたいものの知覚を眼前にした運動の効力をめぐって、ドゥルーズ゠ガタリが『アンチ・オイディプス』以降で展開した「器官なき身体(CsO)」概念をどのように再考できるのか、われわれに問いかける内容でもあっただろう。
コメンテイターは、ラプジャード氏の著作の日本語訳者である堀千晶氏(早稲田大学ほか)がつとめた。堀氏は「目の発生」という主題がドゥルーズにとって重要であった点をマルクス論に絡めて整理し、ラプジャード氏のドゥルーズ論『常軌を逸脱する運動』における「蜂起する集合的身体」をめぐる記述に目配せした上で、いまだ存在していないコレクティヴを形成する可能性をめぐって、大きく三つの問いを投げかけた。ひとつはデモでも蜂起でも新たな時空間がつくられる場合に時空間そのものがどのように変容するのかということ。二つ目はドゥルーズの単著『意味の論理学』の時点ではアルトーの言語と関連づけられていた「器官なき身体(CsO)」と言語の関係をこの文脈でどう考えられるかということ。三つ目は、『アンチ・オイディプス』が刊行された当時の時代状況とテクストそのものの関係について。
以上にかんして、ラプジャード氏からは、ガタリの果たした役割の大きさや1960年代以降のドゥルーズの変遷にかんする総合的な視座がしめされ、とりわけ「器官なき身体(CsO)」の性格として、離散しばらばらになる斥力的な側面がもちろんある一方で、事物を集めて凝集させる引力もまた働いている点が強調され、そのことから集合体の形成の可能性について問うた道筋が応答された。これは2020年代の現在の世界状況を考える上で、何度でも立ち返るべき大切な視点であったと思われる。
この日はあいにくの雪であったにもかかわらず、学内外から少ない方々が、それもありがたいことに若い方々がご参加くださった。準備に尽力いただいた方々はもちろんのこと、はるばる駒場までお越しいただいたすべての方々に感謝申し上げる。
報告:髙山花子(EAA特任講師)
写真:李佳(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)

