2025年3月2日(日)17時より、早稲田鶴巻町にある室伏鴻アーカイヴカフェShyにて、EAA主催のワークショップ「ドゥルーズ読者としての室伏鴻」が開かれた。今年2025年はフランスの哲学者であるジル・ドゥルーズ(1925-1995)の没後30周年であると同時に生誕100周年でもある。たんに節目を祝うだけではなく、パンデミックや戦争や経済危機で混迷するいまこのときに、ドゥルーズをどのように読むことができるのかを多角的に探るきっかけを得るために、一昨年2023年秋より刊行のはじまった講義録編集をつとめるダヴィッド・ラプジャード氏(パリ第一大学)の招聘を企画し、実現した次第である。
イベントの初回となる今回は、わたしが提題者として、ダンサーの室伏鴻(1947-2015)が、ハプニングへの参加や土方巽からの学び、大駱駝艦への参与を経て、とりわけ1981年以降、ヨーロッパを中心に海外で活動をするようになった経緯と、その室伏が、たえまなく現代フランス思想を中心とする人文書を熟読し、日記やワークショップノートを記していた姿を概観するかたちで紹介した。とりわけドゥルーズについては、『千のプラトー』、『フーコー』、『批評と臨床』等にもとづく記述が日記やワークショップノートに断続的にあるため、ダンスとその一方にある膨大な言語の次元について、どのように考えられるのかが今回のテーマであった。
ラプジャード氏からは、ドゥルーズの「生成変化(devenir)」についての室伏の理解について、いわゆる舞踏のイメージ=エネルギーの表現とは異なるものと、テクストによっては、そうともかぎらない部分があるのではないかという率直な反応をいただいた。ウジェーヌ・ミンコフスキー『生きられる時間』における「明るい空間」と「暗い空間」の区別が室伏における「外(dehors)」理解の参照項として挙げられたのは示唆的であった。駆け足ではあったが、物語的な進行と展開をもつバレエを中心とする西欧の身体表象と、そうではない身体の提示をめぐって、フォルマリスムの現在や、「身体(corps)」そのものについて語る言葉がいまだに欠如している現状が確認され、室伏がなぜここまで思想的なテクストを読み込み自分自身の糧としていたのか、問いが深まったように思う。
報告:髙山花子(EAA特任講師)

