2024年12月15日(日)、牧野英二氏の新著『京都学派とディルタイ哲学:日本近代思想の忘却された水脈』(法政大学出版局、2024年)に関する合評会がオンラインにて開催された。本会では、東京大学東アジア藝文書院(EAA)の張政遠氏が司会を務め、廖欽彬氏(中山大学)、田島樹里奈氏(東京交通短期大学)、横地徳広氏(弘前大学)、桑山裕喜子氏(東京大学)がそれぞれの視点から本著に対するコメントを報告した。
廖欽彬氏は牧野氏の著書における「へだたり」という方法的概念をめぐってコメントをした。廖氏は、「へだたり」の反対概念は何かという疑問を提起し、「くっつき」という解答を試みた。そして、本著の「おわりに」に提案された「歴史的構想力(想像力)」で両者を繋ぐだけで十分なのか、という疑問を呈した。「へだたり」には、空間、時間、世界観、研究史、主体と客体など多くの意味が含まれているが、廖氏は、最終的に知識・研究の堆積と現実の乖離という「へだたり」を指摘し、知・情・意をどのように統一するか、あるいは学問と実際の生活をどのように結びつけるかという課題を提起した。
次に、田島樹里奈氏は本著の第二章「田辺元とW・ディルタイの思索の『家族的類似性』」を詳細に分析した。『科学概論』(1918)で、田辺はすでにディルタイが提起した精神科学の重要性を意識していた。ディルタイと田辺との間の「へだたり」を架橋したのは、ヨルク伯のディルタイ批判とハイデガーの「ヨルク体験」であった。しかし、ディルタイに対する評価において、田辺はヨルク伯とは異なる点がある。これらの著者が指摘した論点について、田島氏はまだ明らかにしていないことがあると考えたが、将来の研究における新たな課題であると評価した。ディルタイ哲学の影響を視点に入れることは、田辺哲学の研究に大きな広がりをもたらすきっかけになると述べた。
次に、横地徳広氏は本著の115-119頁に関して、カント哲学に対する理解について具体的な質問をした。その次に、桑山裕喜子氏は本著の第六・七・八章における三木清とディルタイ哲学という話題に焦点を当てて議論を展開した。特に、両者の「へだたり」が、三木自身が論じるほど大きくなかったという著者の指摘が非常に示唆的であると述べた。一方で、三木がディルタイについて評価と批判を重ねている「内在的」な視点の具体的な意味について、より深掘りする質問をした。
報告後、著者である牧野英二氏が、参加者から寄せられた意見や質問に対して丁寧に応答し、活発な議論が展開された。
報告:林子微(EAAリサーチアシスタント)